翻訳家、村井理子さんのエッセイ連載の第3回は、お兄様の死についてのお話。突然の死の知らせによって最期を看取ることもできず、あわただしくその生の後片付けに奔走した村井さんが、残された荷物や記憶を通して、人の生と死について思ったこと、そして自らのこれからについて思うことを綴ってくれました。
実際のところ、私は兄を看取ることができたわけではない。兄は居住していた東北の地で突然死したため、私はほぼ唯一の親類として、彼の遺体を引き取りに行っただけだ。
塩釜署から急な報せが入ったのは2019年10月末のこと。驚きはしたものの、私にはそれより前から予感めいたものはあった。亡くなる数か月前から、家賃の滞納が続いているとの連絡が、兄の住んでいたアパートの管理会社から保証人である私のところに入っていた。私はそれに危機感を抱いて兄のケータイを鳴らし続けた。家賃の肩代わりをするなんてとんでもないと怒りに震えていた。それだけは絶対に嫌だと怒り心頭で兄のケータイをしつこく鳴らし続けた。
通常であればすぐに応える兄が(私からの連絡には大喜びで応じる兄が)、その時期は一切、反応することがなかった。それでもしつこくメッセージを送り続ける私に、とうとう短い返信は来たが、いつもの元気はなく、「もう、どうにもならないんだ」というような、弱気な言葉が並んでいた。その時初めて、何かがおかしいと察知した。兄はもしかしたら、本当に窮地に立たされているのではないかと気づいたのだ。
それから先は、「病院へは行っているの?」とか「相談すべき場所に、相談しにいくべき」とか、いろいろと書いて兄にメッセージを送り続けた。ときにはケータイを鳴らして、しばらく話をしたこともある。当時の兄には以前の活気のようなものがなく、「もうやっています」とか「仕方がないんです」といった力のない返事が聞こえてくるだけ。いつもだったらなかなか切らない通話を、兄はあっさり切ろうとしていた。
何かがおかしい、どうしたらいいのだろう。数か月分でもいいから家賃を振り込んだほうがいいのだろうかと考えていた矢先、塩釜署から兄の死を知らせる連絡が来た。病死だと告げられた。予感があったから、さほど驚かなかったけれど、連絡を受けた日は眠ることができなかった。どうやって兄の人生を終わらせればいいのか、私には見当もつかなかったのだ。
今になって考えてみると、ぎりぎりの状態で生きていた兄に対して、できることはいろいろあったと思う。生活費を送金することもできただろうし、重い腰を上げて兄に会いに東北まで出向き、生活の状況を聞くこともできただろう。
ただ、私自身も兄の死の一年前に心臓手術をした経緯もあり、兄の生活よりも自分の生活の立て直しに必死な時期だった。つくづく、私たち兄妹はタイミングが合わない。いや、最悪のタイミングが重なってしまったとも言える。心臓手術をしたばかりの妹と、狭心症を患っていた兄。二人とも、心臓に爆弾を抱えて生きていた。
一人は滋賀県で、もう一人は宮城県で。もっと近くに住んでいたらよかったのにと、今は思う。せめて車で数時間で行ける場所に住んでいてくれればよかったのに。
結局、私が兄に対してできたことといえば、彼を荼毘に付して、住んでいたアパートを引き払い、遺骨を引き取り、相続関係の手続きをする、それだけのことだ。兄の荷物はほとんど残らず、手元には彼が使っていたケータイが残っている。電源を入れれば起動するが、パスワードがわからないので、引き出しの中に保管している。
運転免許証なども遺してある。添付された写真の兄は、父の晩年にそっくりの顔をしている。それから兄が就職活動をしていた際に書いた履歴書のコピーもある。病気を抱えながらも必死に職探しをしていた跡が見え、捨てることができない。
人間の死はあっけないものだと思う。兄は親しい友人も少なかったようで、私のところに一度だけ、以前近所に住んでいたというご家族から連絡が入ったことがある。でも、それ以外は一度も兄の死について確認する連絡が入ったことはない。
親戚も年を取り、実家の解体も済み、兄の生きていた痕跡は日増しに薄くなっていくばかりだ。本当にあの人、生きていたのだろうかと不思議になることもある。
私の元に遺された兄が生きた痕跡は、わずかな荷物と、遺骨だけ。
生前、兄は散骨を希望していたので、その願いは叶えようと思う。わずかに遺された荷物も、その時に処分するか、あるいは少しだけ遺すかもしれない。すべてを完全に消し去ったら、彼の過去も消えるような気がしてしまうから。

写真上:幼少時の村井さんとお兄様
写真下:村井さんのお兄様とお母様
最近はよく、兄弟姉妹のいる人から、「もし兄が突然死んでしまったらどうすればいいのかわからない」とか、「実家で暮らし続ける弟の存在が心配です」といった相談を受けることがある。
私の経験は誰にでも起きうることで、珍しいことでもなんでもない。当時は大変なことが起きてしまったと大いに焦ったが、すべての仕事が終わった今は、本気になればできない作業ではないと思っている。そんな理由から、「きっとなんとかなりますよ」と答えているが、同時に、自分自身が「突然死んでしまった側」になることも十分考えられるので、できれば健康に、楽しく、荷物の少ない人生を楽しめれば完璧ですねとも答えている。
自分が、いつ、どこで亡くなるのかなんて知らない世界で私たちは生きている。個人的には、死んでしまったあとのことなんて、気にする必要はないと思っているし、誰もがひとりで産まれてきて、誰もがひとりで死んでいくのだから、それ以外のことなんて些細なことじゃないかと考えている。
それでもどうしても心配なのであれば、荷物を減らし、生活をシンプルにしてはどうだろう。自分が身軽になれば、家族の予想外の旅立ちにもきっと慌てることはないだろう。
私自身は、死とはある意味解放であって、兄は苦しみの多かった現世から自由になったのだと思っている。多少の荷物は遺したが、私が片づけられる範囲でよかった。ようやく悩みのない世界に行けたのではと、兄の死を受け止めるようになったのだ。
今回、村井さんに書いていただいた内容は、村井さんの著書『兄の終い』でより詳細に記されていますが、このお兄様の死後の顛末を映画化した『兄を持ち運べるサイズに』が公開されます。
お父様、そしてお母さまを看取り、自身の家庭を築き、仕事に家事に邁進していた多忙な村井さんのもとに突然もたらされた、遠方に住む兄の死。決して理想的な関係ではなかったとはいえ、唯一のきょうだいとして、遺体の引き取りから住んでいた住居の後始末と明け渡し、そして遺された甥のことなど、物心さまざまな問題に向き合って対応してゆく様を、時にコミカルに、時にしんみりと描いています。
©2025 「兄を持ち運べるサイズに」製作委員会
村井さんに扮するのは柴咲コウさん、兄役はオダギリジョーさん、そして兄の元妻、加奈子役に満島ひかりさんというキャストで、監督は『湯を沸かすほどの熱い愛』などで知られる中野量太さん。作品のモチーフにしばしば「家族」を取り上げてきた方だけに、きれいごとだけではすまされない、愛憎入り混じる家族、そして元家族の姿がてらいなく再現されているところも印象的でした。
よく考えるとぎょっとするタイトル『兄を持ち運べるサイズに』は、原作の『兄の終い』の中の一節で、本著が刊行された際の帯にも記されたものから抜き出されたのだそう。突然の重大ミッションを担わされた当時を振り返って捻り出した表現ですが、窮地に陥っても冷静に段取りを考えて対処しようとする気概のある方ならではの、独特の表現に思えます。
兄の死から始まるストーリーのため、兄役のオダギリジョーさんは回想の中の人物としての登場になるのですが、ダメさや狡さはしっかり印象づけながら、それでも憎み切れない愛嬌や温かさも滲ませるところが絶妙でした。そんな兄に迷惑を掛けられ続けてきたしっかり者の妹としての村井さんを演じた柴咲さん、そして同じように悩まされた過去をもちつつもしっかり現実に向き合う元妻役の満島さんの存在感も出色でした。
膨大なモノが残されたアパートを、村井さんと加奈子とその娘という、残された女性たちがどんどん片付けてゆく爽快さ、窓に残されたステッカーをいとおしむ甥っ子のいじらしさ、幼少期の回想で、やさしい兄と幼い妹であった村井さんきょうだいとご両親がお店のガラス越しに見合うシーンのなんともいえない切なさなど、しゃきしゃきとしたユーモアと繊細で切ない感情が入り混じるシーンが折り重なり合う、あっという間の127分の作品です。

©2025 「兄を持ち運べるサイズに」製作委員会
両親だけではなく、きょうだいに対してもケアをしなければならなくなったら……? また、自分や自分の家族、そして仕事のことでもいっぱいなのに、親やきょうだいのことにも対応しなければならなくなったら……? ケアラーならば他人事とは思えない、そんな経験を追体験するのにも絶好な作品です。また、映画とともに『兄の終い』を併せて読むこともお勧めします。家族と生活と自分の折り合いをつけて生きていくためのヒントにもなるのではないでしょうか。
『兄を持ち運べるサイズに』
2025年製作/127分/G/日本
配給:カルチュア・パブリッシャーズ
劇場公開日:2025年11月28日

写真上:『兄の終い』村井理子著(CEメディアハウス 2020年)
写真上:『家族』村井理子著(亜紀書房 2022年)
村井理子さんのウェブ連載
・村井さんちのこと(新潮社「考える人」内)
・ある翻訳家の取り憑かれた日常(大和書房「だいわlog.」内)
・実母と義母(集英社「よみタイ」内)
著者:村井理子(むらい・りこ)
翻訳家/エッセイスト
著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう』(CCCメディアハウス)、『家族』『はやく一人になりたい!』(亜紀書房)、『義父母の介護』『村井さんちの生活』(新潮社)、『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(大和書房)、『実母と義母』(集英社)、『ブッシュ妄言録』(二見文庫)、他。訳書に『ゼロからトースターを作ってみた結果』『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(新潮文庫)、『黄金州の殺人鬼』『ラストコールの殺人鬼』(亜紀書房)、『エデュケーション』(早川書房)、『射精責任』(太田出版)、『未解決殺人クラブ』(大和書房)他。