書店主で著述家としても活躍している辻山良雄さんによる、本と読書についての連載の4回目をお届けします。読書を通じて自分を問い直し、アップデートすることがテーマです。今回辻山さんが取り上げたのは、先ごろ亡くなった詩人の谷川俊太郎さんとブレイディみかこさんとの、手紙と詩の往復書簡集をはじめ、手塚治虫の名作、そして古典の一作。どの本も、根底に老いや死生観がテーマにあるようです。家にこもることが多くなりがちなこの季節。改めて考えてみるきっかけにしていただくのもよいかと思います。
先日の十一月十三日、谷川俊太郎がこの世を去った。戦後を代表する詩人だが、現代詩という枠にはとどまらず、絵本やわらべうた、音楽や映像表現など、ことばの持つ可能性を各方面にまで切り拓いた人だったように思う。
しかしつい最近まで、新聞の紙面や書籍の帯文で、谷川さんのあたらしい仕事を見かけたし、今後会う約束をしていた人もいたというから、それを考えると「亡くなる直前まで、この世での義理を果たそうとしていたのだなあ」と感慨深い。昨年の十一月に刊行された、ライターのブレイディみかことの往復書簡集『その世とこの世』では、齢九十を過ぎ車椅子での生活となった体を顧みて、この世との別れを意識せざるを得ない心境や、来るべき未来の社会を想像するいまだ衰えない好奇心が綴られていて、読むと胸が静かになった。
写真上:『その世とこの世』谷川俊太郎、ブレイディみかこ著 奥村門土絵 岩波書店
明快で勢いのあるブレイディさんの散文に、「詩の朦朧体」で返す谷川さんの往復書簡は、柔と剛、生と死といった両極を往還するようでもある。孤独や老いに関して語っている箇所も多く、そのこともあってだろうか、本にはどこか夕暮れの寂しさの気配が漂っている。しかしそうした老いや死は、もともとこの世界の一部に含まれているものだろう。「メメント・モリ(死を想え)」とは、古くから使われているラテン語の警句だが、人は有限である一生を意識することで、自分がほんとうになすべきことに向かっていけるのかもしれない。
さて本書の中では、「トランスヒューマン」という話題が交わされていて、それがこの時代の変容する〈人間像〉を感じさせ、とても興味深かった。なんでも英国の若い世代には、「人類は少しずつ体を失っていく途上にある」といった、トランスヒュ―マンの思想を語る人が増えているらしい。人間が脳をアップロードし、データとして生きるようになれば、各人の体はなくなり、それによって人種差別やジェンダー、戦争や環境問題など、いま人間を悩ませている問題の種が消え失せるので、人はいまよりも幸せに生きていけるのだという。
確かに、体が人類の災厄の原因だという考えかたは、ある程度理解はできるし、日本の若い世代でも共感する人はいるのではないか。体があるからお腹もすくし、それを満たすための食物をめぐる争いも起こる。サーバーの容量という問題はあるにせよ、人間がデータになれば、こうした争いは解決するのかもしれない。
一方で、人間は体への郷愁を捨てられないのではないかと、ブレイディさんは言う。体こそが、人間が人間とダンスをしたり、時には全身に孤独を感じてしまうような、人間らしさの根拠なのだ。美味しいものを食べ、頬に風を浴び、誰かほかの人の肌に触れるといった人の生活を彩る時間は、体にこそよろこびの源泉がある。そうしたよろこびを放棄し、それでも人間は人間らしく生きられるものなのか、わたしにはわからない。
椅子に座って
目の前に在る物の
名を読んでみる
陶器のタンブラー
珈琲が入っている
飲みかけで
もう冷めている
血圧計
ほとんど使っていない
筆立てと3Bの鉛筆
と鋏と筆ペン
(中略)
ここまでは
ほぼ正確に絵が描けるが
ラップトップ
となると
内蔵された情報のせいで
目の前に在る物だけでは済まなくなり
言葉は拡散し始めて
世界はどんどん形を失ってゆく
(谷川俊太郎「目の前に在る物」
『この世とその世』より)
人工知能や、メモリに内蔵された情報により、もはや誰にも世界の正確な絵は描けなくなった。世界はいま、死を想うことすら難しい時代に入ってしまったのだろう。
いまここから溶け出しそうな体を集め、これからわたしたち人間はどのように生きていけばよいのだろうか。
こうした状況を、天才が持つ直感力で、随分前から予測していた人物が手塚治虫である。彼のライフワークである「火の鳥」の『火の鳥 未来編』には、死ぬことのできない人間が登場する。時は西暦三四〇四年、地球は急速に死にかかっており、人類は世界に五カ所ある「永遠の都」でかろうじて生き延びていた。しかし、互いの些細な行き違いを軌道修正できなくなり、五つの都は一瞬にして火の海と化してしまう。
あらゆる生命が消え去ったあとの地球に取り残された主人公の山之辺マサトは、火の鳥により不老不死の体にされ、地球をもう一度復活させるべく、ふたたび人類を生み出す役割を与えられる。それから五千年、そしてさらに気の遠くなるような時間が流れ、その間地球上では、その都度生まれてきた生物が栄枯盛衰するが、どの生物も発達した脳があだとなって滅び、マサトは一人それを見守り続けるしかなかった。
写真上:『火の鳥 未来編』手塚治虫著 朝日新聞出版
古今東西、多くの権力者や独裁者が欲した不老不死だが、マサトを見る限りそれは牢獄に閉じ込められた絶望でしかない。人間の体を超越したトランスヒューマンも、その意識が人間である限り、存在という有限性を超えることはできないのではないか。
何ものも、死を免れるものはいない。この世は儚い。だから人間の世界は虚しく、富にこだわっていても仕方がない……。
これが、日本の中世を代表する随筆『方丈記』を貫く鴨長明の主張である。長明の生きた、平安末期から鎌倉初頭にかけての激動の時代には、火災や竜巻、遷都、地震といった天災(遷都は人災に含むべきものだが、この時代の感覚としては、突然ふってわいた天災に近いものだったと思う)も多く、人の〈死〉が身近にあった。世俗的にも不運で、望むべき出世も与えられなかった長明は、京都郊外の日野という地に一丈四方の草庵を構える。
写真上:『方丈記』鴨長明著 蜂飼耳訳 光文社古典新訳文庫
この世を憂い、仏道修行に励む長明……のはずであったが、彼は案外この世を捨てきれず、『方丈記』執筆の数か月前に鎌倉まで赴き、源実朝と面会している。歌の指導者としての職を得ようとするもその成果はかばかしくなかったようで、どこか俗っぽさが抜けきらないようにも見える。これはいったいどうしたことだろう。
死を想い〈無常〉を口にするも、その体は手前の〈生〉で立ち止まっており、この世をうろうろと伺っている。なんとも人間臭いし、言ってしまえば可愛らしくもあるのだが、そうした体への未練が、長明に『方丈記』という傑作を書かせたのかもしれない。いわば『方丈記』は、限りあるいのちだからこそ発することのできた、美しい声なのである。
原文でもさらさらと読むことのできる名文だが、詩人の蜂飼耳(はちかいみみ)さんの訳した文章はさらに平易な言葉で、古典を読むストレスを感じさせない。ぜひ読んで、長明の複雑な魅力を味わってほしい。
写真(トップ):ピクスタ
著者:辻山良雄
辻山良雄(つじやま・よしお) 1972年兵庫県生まれ。大手書店チェーン〈リブロ〉を退社後、2016年、東京・荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleを開業。書評やNHK「ラジオ深夜便」で本の紹介、ブックセレクションもおこなう。著書に『本屋、はじめました』『365日のほん』『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』がある。最新刊は『熱風』誌の連載をまとめた『しぶとい十人の本屋』(朝日出版社)。撮影:キッチンミノル