その距離感が難しい“娘による実母の介護”について考える連載。両親の介護するために、一家で実家に戻り、同居することにったB美さん。母親との衝突を避けるために取った行動から、母娘の関係性がさらにこじれてしまいました。
2人の幼い子どもを育てるB美さんには、地方で暮らす両親がいました。ある日、父親が転倒。ほぼ寝たきりの要介護状態になってしまいました。3ヵ月の入院を経て、父親は在宅介護に。母親と実家の近くに住む、乳飲み子を抱える妹が父親の介護をしていましたが、あまりに大変そうな様子にB美さんは夫に転勤願いを出してもらうように頼み、一家は両親と同居することになりました。
父親が要介護状態になった数年後、母親が持病の悪化で倒れてしまったのです。さらに、認知症の症状が見られるようになりました。母親が倒れたことで、全介助状態の父親は病院にお願いすることに。B美さんは父親の病院に通いながら、母親の在宅介護をすることになりました。
そもそもB美さんの母親はB美さんが子どものころから、持病に悩まされていました。父親は仕事で家を空けることが多く、誰に求められたわけではないのに長女という責任感から、母親の代わりに家事やきょうだいの世話などをしていました。今でいうヤングケアラー(家族のケアの担う18歳未満の子ども)状態だったのです。
さらに、以前から母親とB美さんの関係性は決して良いものではなかったといいます。B美さんは病を抱えた母親に幼いころから頼ることができませんでした。その上、母親との会話においては「全部を言わなくても、私の思いを察してよ!」という母親からの圧のようなものを常に感じていたそうです。そんな母親に対して、B美さんは「思っていることは言葉で伝えてもらわないとわからない」とモヤモヤとするものを抱え続けます。コミュニケーションを上手に取ることができない母と娘のこの関係性が、B美さんの介護生活を過酷なものにしていったのです。
持病を悪化させないために、母親は医師から食事や行動についての制限が求められました。B美さんは母親のためを思い、お互いが苦しくなることを感じつつも、食事や行動制限を徹底しました。そこには、24時間ずっと一緒の在宅介護が「早く終わって欲しい」と思う反面、母親に「生きていてほしい」という気持ちがどこかにあったからです。そんなB美さんに対して、母親は食事が口に合わないと残したり、勝手な行動をすることで反発。母親との衝突に疲れたB美さんは母親と口をきくことをやめてしまったのです。自分とは口をきかなくても、母親には訪問ヘルパーなどと会話を楽しんでもらうようにと、B美さんは彼らが来たときは席を外していたそうです。しかし、認知症で物忘れなどがあるのに作話上手な母親はB美さんを悪者に仕立て上げた話を彼らにし続けたのです。気が付くとB美さんは、ヘルパーなどの介護サービスのスタッフたちから、敵のように思われるようになっていました。
娘と母親は関係性が良くても悪くても、心の距離感が近い。だからこそ憎悪の感情も膨らみやすく、娘は母親の敵になりやすいと思ったというB美さん。あのとき、ショートステイの利用や施設入所、逆に自分がパートに出るなどして、母親と距離を取ることができていれば少しは楽になっていたかもしれないと振り返ります。ただ、当時のB美さんはそんなことを考える心の余裕はないほどに追い込まれ、気が付くと10㎏も体重が減っていました。
B美さんはデイサービスを利用して在宅介護を続けたかったのだそうです。母親の主治医はショートステイはOKでも、デイサービスの利用を許してくれませんでした。さらに、母親はショートステイを「姥捨て山」だとして受け入れませんでした。親子関係の悪化や日々やつれていくB美さんと母親を引き離すため、ケアマネジャーが配慮し、母親を入院させる提案をしても、なんとか在宅を続けたかったB美さんはすぐに決断できずにいました。
するとある日、母親は病院に自ら電話をして入院を決めてしまったのです。さらに、母親の介護保険証をケアマネジャーが受け取りに来たので預けたのに、自身で返しにくるどころかその後は会うこともなく郵送で戻されたうえに、介護保険証のケアマネジャーと事業所の欄は空白になっていました。この対応にケアマネジャーにも見捨てられたと思い、「母はもう、家へ戻ることはないな」とB美さんは大きなショックを受けたといいます。
今となれば、介護をプロに託したり、ずっとそばにいなくても、それが良い方向に進むための手段ならば罪悪感を持たなくてもいい、ということがわかります。しかし、あのときは明らかに精神的に追い詰められており、体力的に楽になったことすら悪だと捉えてしまったそうです。
そんな背景もあって徐々に母親の病院へは足が遠のき、追い打ちをかけるように同室の患者さんからは「お母さんのところへ、もっと来てあげたら」と言われ、ますます母のところへは行きづらくなったB美さん。母親が「家に帰りたい」と言っていると病院のソーシャルワーカーに言われても受け入れられず、母親の顔を見ることができなくなって1年が経過したころ…。病院から危篤の連絡があり、久しぶりに母親の顔を見たかと思うと、そのまま看取ることになりました。
介護者としては限界を超えていたため、母親が亡くなり、正直ホッとした部分もありました。一方で、たとえ関係性がうまくいっていなくても、B美さんにとって絶対的な味方であろう存在の母親がいなくなったことに、ふいに泣けてくることがあったそうです。
その後、父親を看取り、グリーフケア(死別した遺族のケア)や介護に関する講演会などに参加するようになったB美さん。
最近、参加した親子関係に関するセミナーでB美さんが母親とのことを話すと「それはあなたの親が悪い」と講師から言われたそうです。今はその言葉に救われ、「母と私はそういう関係性だったのか」と思うことができるようになりました。
自身が倒れるまで母親の介護を頑張ったB美さんが、実母を介護する娘たちへ次のことを強く伝えたいといいます。
自身の経験から「家族間の対話不足が、家族の問題を大きくする」と学び、家族との対話の大切さを周りに伝えているそうです。ただ、特に親子の関係は一筋縄ではいかないことが多く、「距離感を取って」と言われて傷つく人もいるかもしれません。また、どんなに大変でも実母と距離を取ることができない娘もいるかもしれません。矛盾した言い方になるかもしれませんが、B美さんは一番近くで介護をしている人の選択はすべて正しい、とその人が選んだ介護を受け入れてあげたいそうです。
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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