毒親ではないけれど…。本当は誰かに聞いて欲しい! あなたの半径3m以内にいるかもしれない母と娘の関係性について考える連載。エリート街道を歩み、なんでも完璧を目指すS子さんの母親。その価値観に抗うようにS子さんは家を出るも、両親の介護が気になる年齢になってきた。そんな中、母親のプレ介護を経験して、辿り着いた答えとは…。
S子さんの母親は、“超”が付くほどエリートな人生を歩んできました。幼いころから成績が優秀で国立大学の薬学部に現役で合格。医学部に入り医者になることもできる成績でしたが、「嫁の貰い手がなくなる」と父親から反対され泣く泣くそれは諦めました。卒業後は大学で学んだ薬学の知識を生かし、有名企業の研究員として働いていました。
当時は昭和の価値観が強く残る時代だったため、ある程度の年齢になると結婚をすすめられ、一流商社に勤める男性と結婚し、退職。姉とS子さんの2人の娘が誕生します。
頭脳明晰な母親は家庭に入ると、今度は完璧な良妻賢母を目指しました。そこには、母親の生い立ちが大きく影響しているとS子さんは分析します。母親の実家は商売をしており、S子さんの祖母にあたる母親の母親は夫の事業を大きくするために奔走し、良妻賢母とは言い難い存在だったようです。母親を反面教師として、「あんな母親にはなりたくない!」と、理想の妻、理想の母親になるためにS子さんの母親は、結婚後も研鑽し続けます。
夫や子たちに恥じない知識を得ようと、毎日、日経新聞を隅から隅まで読み、1円の狂いもなく家計簿を付けます。これを結婚して50年以上、現在に至るまで1日も怠らずに続けているのです。また、習い事をすれば、先生を凌ぐレベルまで技術が達してしまい、気が付けば自分でお教室を開き、お弟子さんが付くほどになっていました。
S子さんは母親のことを「何をやっても完璧で、人生において失敗をしたことのない人」だといいます。たとえば、父親も国立大学を卒業していますが、一浪して入学しているのを快く思っていないくらい自分にも他人にも厳しい。そんな母親が、唯一人生で失敗したのは“子育て”だったのではないかと、母親の思い通りにならなかったS子さんは母親との関係を振り返ります。
S子さんの姉は母親のDNAを引き継ぎ、中学受験のために通った塾のテストで全国1位になるなど勉強に励み、地域でトップクラスの学校に入学しました。一方で、あまり勉強が得意ではなかったS子さんのことを母親は「勉強ができない意味がわからない」と理解に苦しみ、「頑張ってもできないものがある」ということを受け入れてもらえなかったそうです。自分は完璧で正しい子育てをしているのに、S子さんが勉強ができないのは、親である自分ではなく子どもの方に問題がある、とS子さんをまるで異星人のように捉えていたといいます。S子さんが今なお忘れられないほど傷ついた言葉である「あなたのためだから…」という枕詞とともに発せられた母親独自の価値観…。涙ながらに母親に反論しても、理路整然と反論されてしまったそうです。
その結果、S子さんは母親に対して、悩みを相談したとしても求める答えがもらえないことを早い段階から悟り、母親の顔色を窺ってばかりの子ども時代を過ごしました。外からみればハイスペックな親に育てられて金銭的な苦労はなかったかもしれませんが、S子さんは母親からの愛情に飢え、常に孤独を感じていたそうです。
母親の望みに応えてエリート街道を進んだ姉も、実家での生活に息苦しさを感じていたようで、大学を卒業すると1人暮らしを始めます。姉が実家を出たことで、母親との距離感が近くなったS子さんは、それまで以上にモヤモヤとする息苦しさを感じていたそうです。今であれば、そのモヤモヤの原因はエリート思考の母親による見えない圧だったとわかりますが、高校生で他の家庭を知らなかったS子さんはそれに気づくことができませんでした。
その後、S子さんも実家を出て、紆余曲折の末に自ら事業を立ち上げました。それにより、母親が重視していた学歴や所属などに大きな意味を持たず、自分軸で生きている人たちのことを知りました。そしてS子さん自身も信念を貫くことによって仕事のやりがいなどを見つけ、母親との独特な関係性についても「母親の知る限りの基準によるもので、母親に悪気はなかったのだ」とフラットに考えることができるようになったのだそうです。
完璧主義の母親、そして父親も後期高齢者と言われる年齢になり、離れて暮らしているS子さんが親のこれからに不安を感じていると、ある日、衝撃的な出来事が起こります。
なんと、ピーポーピーポーとけたたましく鳴り響く救急車のサイレンとともに「お父さんのお世話をしに帰ってきて!」と母親が救急車の中からS子さんに電話を掛けてきたのです。自分が救急搬送されているのに、父親のお世話を気にしている母親に戸惑いながらも、S子さんも姉も、すぐに飛んでいくわけにはいきません。話しをする余力はあるようでしたが、会社員の姉よりも仕事の調整ができる自営業の自分が翌朝、母親が入院した病院へ急ぐと、足を骨折した母親がベッドに横たわっていました。
母親によると、斜面に面している花壇を掃除しているときに、約2m下の崖に落ちてしまったとのことでした。そこから一人で這い上がり、父親に助けを求めて119番通報をしてもらっている間に、血で汚れた道を掃除し、入院の準備をして、ご近所に迷惑を掛けてすまないと挨拶をしたところで救急車が到着。救急車に乗り込んだところで、S子さんに電話を掛けたといいます。自分が大けがをしてもなお、完璧であろうとする行動をした母親に改めて驚いたというS子さん。こうして一番恐れていた母親の介護問題が急に降りかかってきたのです。
母親の性格をよく知るS子さんは、退院して骨折が治るまでの期間限定ならば、徹底的に母親の望みを叶えてあげるしもべになろう、と決心しました。ところが、高齢になっても良妻賢母を貫き、子どもの世話などにはならず自分は自立していると主張する母親と衝突するなど、しもべ計画は3日で破綻してしまいます。S子さんは老いてもなお変わらない性格のままの母親の今後が心配になり、介護経験のある友人から聞いていた地域包括支援センターへ相談に行くことにしました。
入院中の母親は座ったまま動くことができるキャスター付きの椅子を用意するなど自宅で生活できる段取りを完璧にして、まわりが驚くくらいリハビリに励みました。S子さんが相談に行ったことで、地域包括支援センターの職員が状況を把握するために実家に来て、母親は介護保険の認定審査を受けましたが、みるみる回復したため介護サービスの利用には至りませんでした。
母親の完璧主義がよい方に作用して事なきを得た骨折騒動でしたが、S子さんはしもべとなり、付きっきりで過ごした3日間で母親の年齢による体力の衰えをひしひしと感じました。それは、そう遠くない将来に訪れるであろう介護問題について、これまで以上に真剣に向き合う機会となったのです。その結果、理想論といわれるかもしれませんが、もし、母親が要介護状態になったとしても、介護サービスなどを上手に利用して、遠隔で母親が望む生活を維持していこう、という考えに至りました。
自身のプライドを保つためか「娘たちの世話にはなりたくない」と言う母親ですが、未婚で仕事に打ち込む2人の娘に対して、本心ではどう思っているかはわからないといいます。それでも、価値観が違い過ぎるS子さんと母親が一緒にいればお互いにストレスが溜まってしまうのが目に見えています。可能な限り今までの生活をお互いに維持するために何をしていけばいいのかを、一人で抱え込まず地域包括支援センターなどプロにも積極的に相談して乗り越えていこうとS子さんは考えています。ただ、今は心に余裕があるから冷静にそう思えます。しかし、(母親の状態が悪化し)切迫した状態となったら、最終的には一緒に住むことを受け入れしまうかもしれない、とS子さんは空を仰ぎます。なぜなら、望んでいたような愛情はもらえなかったとしても、母親なりに一生懸命に育ててくれたことへ恩返しをしたい気持ちがある、と揺れ動く心の内を正直に語ってくれました。それまでのさまざまな思いや考えがあっても抗えないときもある、それも母と娘の関係性ゆえかもしれません。
▼この記事の著者の前の記事
・娘はつらいよ!?①|実の母親を介護するということ
・まだ、介護は始まっていないけど将来が不安な娘|娘はつらいよ⁉ ②
・実母の介護で心身が限界を超えてしまった娘|娘はつらいよ!?③
・絶対に同居を選ばなかった娘 |娘はつらいよ!?④
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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