あなたの半径3m以内にもいるかもしれない!?  毒親未満の母と娘の関係性について考える連載。耳の聞こえない両親の元で育ったY美さん。幼少期は母方の祖父母に助けられて育つ。自宅にかかってきた電話の対応や祖母の介護など、本来は母親がメインで行うべきことを母親の代わりとなり行ってきた。そして、持病の腎臓病が悪化するも母親からは他人事のようにあしらわれて…。

1. 声をあげても親には助けてもらえない

聞こえない、聞こえづらい親を持つ子どものことを”コーダ”(Children of Deaf Adultsの略)といいますが、Y美さんもそれに当てはまる両親のもとに生まれました。ろう学校のサークルで出会った同級生どうしの両親は卒業後も交際を続け、20代半ばで結婚。母親が35歳のときにY美さんが、43歳のときに妹が生まれました。

Y美さん一家は、祖父母のサポートが受けやすいようにと母親の実家の敷地内にある離れで暮らしていました。そして、Y美さんは話すことや他者とのコミュニケーションは祖父母から学んだといいます。祖父母は耳の聞こえない両親に代わってY美さんの子育てにかかわり、特に祖母はY美さんにとっては母親のような存在でした。

幼稚園に通うようになると、家に電話がなかったり、母親たちの劇で自分の母親だけセリフがないなど、Y美さんは自分が他の子どもたちと違う環境にいることを感じ始めます。祖父母がどんなにY美さんを可愛がってくれても、Y美さんは「声をあげても親には助けてもらえない環境に自分はいる」「親に見捨てられる」という危機感を幼い頃から持つようになります。

たとえば、母親と出かけたときにY美さんが後ろで転んで泣いていても、その声が母親には聞こえないので助けてもらえません。また、母親は障がいがあるということで過保護に育てられたため、子どものY美さんに対しても気に入らないことがあると癇癪を起すなどワガママな性格です。また読唇術や筆談などでコミュニケーションを取る両親とは伝えたいことが50%くらいしか伝わらず、お互いの感情を理解するまでには至りません。それなのに小学生になると祖父母から「お父さんやお母さんの面倒をみるために、しっかりするんだよ」と言われるようになりました。こういった環境下で育ったY美さんは非常に我慢強い性格になっていました。

2. 妹の誕生、父親の急逝、祖母の介護

Y美さんが8歳のとき、妹が誕生します。幼いころから「親に見捨てられる不安」を常に抱えていたY美さんは親以外の家族としてきょうだいを切望していました。その願いが叶い、うれしくて仕方なかったというY美さん。Y美さんは自分のできる範囲で育児の手伝いをし、祖母のサポートも得ながら生活をしていました。

Y美さんが11歳、妹が3歳のとき、父親がくも膜下出血で急逝します。悲しみもありましたが、父親は気に入らないことがあると激昂し、妻や子どもに暴力を振るう存在でもあったため、心のどこかで家庭内が穏やかになるとホッとした部分もあったそうです。  

Y美さんが中学生になったころ、耳の聞こえない母親のことを学校で友人にバカにされる ような出来事がありました。それも原因の1つとなり、Y美さんは不登校になってしまいます。そのときも、母親ではなく祖母がさまざまな対応をして、なんとか中学校を卒業。その後、大学まで進学することができました。

大学卒業後、祖父が亡くなり事業を一人で切り盛りしていた祖母の手伝いをしていると祖母に認知症のような症状が見られるようになります。しかし、ワガママな母親は、一切祖母の介護に関わろうとしません。ほんの少しの間、祖母の見守りをお願いしても「Y美は幼いころから世話になっているんだから、面倒をみるべきだ」とテレビを見ることを優先しようとします。そんな無責任な母親を見て、Y美さんは20代にして、幼いころから母親に代わって育ててくれた祖母の介護を担う決心をします。同時に、これまで助けてくれた祖母が認知症になり「もう自分には頼ることができる存在はいない」と絶望したそうです。

3. 「自分の世話をする人が欲しかった」と母親に言われて…

妹はまだ高校生で母親は祖母の介護に一切協力してくれないという状況の中、Y美さんは20代で介護保険制度のことも詳しくなかったため、最低限の介護サービスのみを使い、たった一人で祖母の介護を約5年続けました。さらに追い打ちをかけるような事態が起こります。小学1年生の頃に慢性腎臓病と診断され、成人してからも入院や通院をしていたY美さんの病状が祖母の介護により悪化してしまったのです。精神的なつらさに加えて、身体的な不安も抱えてしまったため、祖母は施設に入所することになりました。Y美さんは祖母が入所した施設へ頻繁に面会に行きましたが、母親は祖母が亡くなるまで一度も面会に行くことはなかったそうです。

その後、Y美さんが社会人となった数ヶ月後、母親は乳がんを患うなど闘病生活を強いられることになります。祖母の介護をした経験から、母と娘の関係性が逆転したことを強く感じていたY美さんは母親の母親になったような気持ちでそのお世話を担ったそうです。母親はそんなY美さんを労うどころか、娘たちのことを「自分の世話をする人が欲しくて子どもを作った」と言い放ちました。その言葉にY美さんは自分に対する愛情や親としての責任感がない人なのだと、母親に何かを望むことがなくなりました。

4. わずかな希望も絶望に変わる

30代になったY美さんは、透析か腎臓移植かという状態になるほど腎臓病が悪化してしまいます。今後、結婚や出産があるかもしれない妹には荷が重いお願いになるため、母親との関係に絶望しきっていても、わずかな希望を抱いて腎臓移植の相談をするも「自分のお腹を切るなんて嫌だ」と拒否されてしまいます。ある程度は想像していた返答でしたが、自分が望むような母娘関係は幻想だったと改めて気づかされました。ただ、普通の母親が言わないようなことをここまで平気で娘に言う母親の背景には、耳が聞こえないという障がいに加えて、(いまさら検査はできませんが)発達障がいもあるのではないかと疑うようになっています。そうでなければ、以前からの母親との独特な関係性を自分の中で消化することができません。つい先日もY美さんが入院することを知った母親が、Y美さんの心配ではなく「私の通院には誰が付き添ってくれるの?」と言ってきました。

わずかな希望も絶望に変わる

5. 家族は無条件で家族を支える社会的資源ではない

Y美さんには大切なパートナーができました。彼に母娘関係に関して客観的な意見を求めると、案の定、独特過ぎる関係性だという答えが返ってきました。Y美さんは、そんな親子関係にパートナーを巻き込んで、彼に悲しい思いをさせたくないという気持ちが生まれたといいます。そのために自分が今後やるべきことを考えている最中だそうです。

現在、母親は足の関節の手術を受けたこともあり、車椅子でないと外出ができなくなってしまいました。Y美さんはその介助をサポートしているのですが、祖母の時のような自分が身を挺する介護ではなく、外的資源をどんどん取り入れて、たとえ自分が入院してもどうにか母親が生活していける環境を作る段取りを行っています。

家族のために我慢ばかりしてきたY美さん。「家族は無条件で家族を支える社会的資源だと思われていますが、私は、もうそれを担いたくありません」とこれからの意志表示をしてくれました。




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著者:岡崎 杏里

大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
https://anriokazaki.net/

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