「スープ作家」有賀薫さんの期間限定連載の最終回となる3回目の記事をお届けします。スープ作家となるまではライターをこなしながら主にご家族のための料理をされていた有賀さん。旦那さんのために、またはお子さんのために料理をし、食べてもらうための創意工夫をされてきたのだと拝察します。その際に、どんな方でも起こり得るのが作る側と食べる側のすれ違いではないでしょうか? 時には些細な、またある時には大きな溝が生じてしまい、双方にとってのストレスとなることも多々。そんなシチュエーションを土台とし、双方にとって必要な働きかけ(コミュニケーション)や考え方の転換などについてお聞きしました。また、有賀さんご自身のお母さまとの意外なエピソードについてもお伺いすることができました。そこには人が食に求めることの切実さとその不思議さについて考えさせられるものがありました。
家庭で料理をしている方からよく「時間をかけて作っても、家族は何も言ってくれないので作り甲斐がない」「子どもの好き嫌いが多くて困っている」「文句ばかり言われて料理する気がなくなってしまう」という声が聞こえてきます。これは調理の技術や環境では解決できない、コミュニケーション面での料理の悩みといえます。
私も、そんな悩みを感じてきた一人です。夫はよく知っているものだけを食べたい人で、しかも好き嫌いも多かったので料理には苦労しました。結果的にそれが今の自分の仕事に活きている部分もありますが、食への好奇心が強く、味の冒険をあれこれしたい私としては、お互いの満足をすり合わせていくということにずいぶん心を使ったような気がしています。
服や音楽の好みと同じで、食の好みもそれぞれが違って当たり前のことかもしれません。それでも一緒に食卓を囲む相手とは、同じ味を分かち合って、おいしいねと共感しながら食べたいと願うのが人の心というもの。今回はそんな、食卓でのすれ違いについてお話します。
舌の好みが簡単に変えられないのは、私だって同じです。好き嫌いは少ないものの山盛りのオムライスや丼物などのように単一の味で量の多い食事や、味の強すぎる料理は途中でめげてしまいます。レトルトや冷凍食品もたまにならおいしく食べるけれど、続くのは勘弁です。夫から見ればそんな私は「味の趣味が遠い人」になるわけです。
そもそも味覚は、口に入れたものが自分にとって安全かそうでないかを見分けるために備わっています。舌には腐ったものや毒のあるものを体の入り口で排除するための安全センサーとしての役割があるということです。「食べ慣れないもの」や「自分の体質に合わないもの」「刺激の強すぎるもの」は、食べてすぐにおいしいとは感じられないようにできていて、繰り返し食べた結果、脳が「これは安全」と判断し、初めておいしいと思えるようになります。
少し話が脱線しますが、よくお子さんの好き嫌いを相談されることがあります。子どもは食べる経験値が大人に比べて圧倒的に少なく、未知の味が多いうえに感覚そのものは大人より鋭敏です。好き嫌いは当たり前のことだし、好き嫌いが多い子はむしろ味がわかる子です、という話をした上で、子どもに対しては無理強いせず、でも一口だけは食べることをくりかえしながら食の経験を増やしてあげてください、などとアドバイスをしています。これはいくつになっても同じことですね。
こだわりの強い人だと、そもそも違うものを受けつけない場合もあります。イチローが毎日カレーを食べるという話などは有名ですよね。性質や習慣からどうしても変えられない場合、こちらが気持ちを切り替えたほうがよいのです。
人にとって「慣れた味」は思っている以上に大事なものです。子どものころから濃い味に慣れた人が薄味の料理につい醤油をかけてしまうのも、自分がよく知っている味にしたいからともいえます。作る側にとってはかなり傷つく行為ではありますが、こういう心理を理解できると、感情的にならなくて済むかもしれません。
ふだん料理をしない人にとっては、何も言わずに出された料理に何が入っているかが、わからないそうなのです。レストランや居酒屋ではメニューを見て頼むので、自分が牛肉を食べているのか豚肉なのか、イワシなのかアジなのか、だいたいのところはわかります。でも家庭の場合、とくに野菜炒めや煮物、スープやシチューなど、何を入れても成り立つものは、出される側にとってはこわごわ食べるという面もあります。
えっ、豚肉と牛肉の違いぐらいわかるでしょ?とお思いでしょうか。意外とそうでもないようです。目隠しをされるだけで味の違いはわからなくなるもの。白身魚がフライになって出てきたら、あるいは野菜が形の全くないポタージュで出てきたら、それが何か言い当てられる人は、料理をする人でも案外少ないのではないでしょうか。
ですから、食べ慣れている料理や、カレーや麻婆豆腐、唐揚げなどみんなが知っているような料理以外のときは、作った人が少し説明を加えるだけで料理との距離はぐっと縮まります。私は野菜炒めのときなどは、使っている素材と味つけを伝えます。たとえば「豚肉とチンゲンサイ、たまねぎ、きくらげの塩炒めです」とか「イカとセロリをカレー炒めしました!」など、まるでレストランのように言葉で伝えるのです。
不信感を抱えたまま、料理をおいしいと感じることはありません。家庭内といっても夫婦や義理の関係は、別の食習慣を持ったそれぞれの人間同士です。だからこそ、作る人と食べる人の信頼を築いていくことが大事なのだと思います。
味覚の行き違いということでいうと、私にはひとつの苦い思い出があります。
私はこれまで、介護をほとんど経験してきませんでした。母が末期のがんで亡くなるまでの数か月を一緒に過ごしたのが、唯一の介護らしい介護です。手術の後、何を食べてもおいしくないという母に何か食べられるものをと思って、スープを作りました。自分がスープ作家だからということだけでなく、病人食といえばスープという頭があったのです。鶏を煮込んで時間をかけてとったスープは上出来で、これなら必ずおいしいと言ってもらえると自信をもって出しました。ところが、母はそのスープをまったく受けつけなかったのです。こらがダメなら…と作りなおした味噌汁もコンソメもミネストローネも。喉を通りやすいはずのスープが、体とともに舌が変わってしまった母には食べられなかったのです。
もちろん無理強いはできません。正直なところ、自分の一番得意な料理で母を喜ばせることができなかったことで私はひそかにがっかりしていました。そして、がっかりした自分にまた、がっかりしたのです。こんな場面でさえも作る側には喜んで食べて欲しいというエゴが出てしまうものなのか。それは後々、自分への戒めとして心に深く刻まれました。その後、冷やしたなすの料理を作ったら母は喜んで食べてくれて、ほっとしたものです。
食べる側の思いと作る側の思いはかくも差があるのだ、ということばかり書いてきました。でもそれは、誰かと食卓を囲んでおいしさを共有する幸せを思い描くからこそ。違う人間が二人以上いれば舌もそれぞれなのです。違う、というところからスタートしたときに、一番大事なことはなんでしょう。
冒頭で、うちの夫は好き嫌いが多いと悪口を書いてしまいましたが、夫の食卓のふるまいで素晴らしいことが2点あります。それは「出されたものを絶対に残さない」、そして「出されたものに絶対に文句を言わない」という点です。嫌いなものが出されても、自分の皿にのっている以上は絶対に食べ切ります。これはなかなかできることではありません。もちろん喜んで食べているかそうでないかは食べっぷりを見ればわかることなのですが、少なくとも味が薄いだのまずいだのと言われたことが一切ないのです。これには本当に感謝しています。私にはできないことで、息子の食の教育上も非常に助かりました。
残さない、文句を言わないということは、作る人への大きな敬意です。そういう態度をとってくれると、作る側のこちらも、もっとおいしいものを食べて喜んでもらおう、工夫しようという気持ちが自然に芽生えます。この文章を読むのはおそらく作っている側の人が多いとは思うのですが、このことは、食べる側の人たちに強く訴えていこうといつも心がけています。逆に作る人への敬意が見られない行動には、作った人自身がもっと怒ってもいいんじゃないかと思います。
本心で思っていない誉め言葉は実際のところ、心に響くことがありません。それに、家はグルメ番組ではないのですから、あまりおいしいおいしいと大げさに言ったり言われたりするのも疲れるものです。それよりは、出されたものをしっかりと味わってきれいに食べ切り、いただきます、ごちそうさまでしたと言ってもらうほうが毎日の食事にはちょうどいいように感じられます。
長く一緒に暮らしているうち、大げさに料理をほめ合うことはなくなっても、一口食べたときの満足そうな顔をしてくれたらすぐに伝わります。大皿に盛った料理が最後のひとすくいまでなくなるのも「おいしかった」の証拠です。そんなとき、私はお皿を片づけながら、心の中でガッツポーズを作るのです。
写真:freepik(トップ)、有賀薫(その他)
著者:有賀薫(ありが・かおる)
スープ作家。息子を朝起こすために作り始めたスープをSNSに毎朝投稿。10年間で作ったスープの数は3500以上に。現在は料理の迷いをなくすシンプルなスープを中心に、キッチンや調理道具、料理の考えかたなど、レシピにとどまらず幅広く家庭料理の考え方を発信している。著書に『帰り遅いけどこんなスープなら作れそう』(文響社)で第5回レシピ本大賞入賞、『朝10分でできる スープ弁当』(マガジンハウス)で第7回レシピ本大賞入賞。ほかに『スープ・レッスン』(プレジデント社)、『有賀薫の豚汁レボリューション』(家の光協会)、『私のおいしい味噌汁』(新星出版社)など。最新刊は『有賀薫のだしらぼ』(誠新堂新光社)。
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