実の親子でも、義理の親子でも、世代間の微妙な溝というものは簡単には埋めがたいもの。年を取った親のちょっとした日常のサポートをするようになり、それまでより少し触れ合う時間が多くなって、ちょっとしたやりとりの中でのいざこざや違和感のようなものを感じたことは誰にでもあるのではないでしょうか? 基本はすべてコミュニケーション。そこで、シニア(年配者)との対話やコミュニケーションに長けた人の話を聞きたい、と考え、思いついたのがこの方。雑誌やウェブでのコラムの名手であり、書籍を出せば忽ち話題、ラジオでも活躍中のライターの武田砂鉄さんです。編集者時代から年長者と対話し、言葉を掘り起こしてきた方。そんな武田さんに、シニアについて、また、その向き合い方についてお聞きしました。身近なシニアを違う側面からみるためのヒントにしていただければと思います。
初対面の人に実年齢(今は41歳)を伝えると驚かれる。学生時代からそうだ。実年齢を伝えると驚かれる人生が続いている。その若い感性で、とか、そのプルプル肌で、といったポジティブな方向性ではなく、軒並み「もっと上の年齢だと思っていた」と言われる。それはたとえば、寺田心さんの達観した姿勢などに向けられがちな「人生何度目だよ!」的ツッコミとは異なり、どうやら「落ち着きがある」という状態に対しての評価らしい。
概ね高評価として使われていると信じているが、「ハイタッチに快く応じてくれる人」や「理由なんてなくても一緒に騒いでくれる人」を求めている人からすると、自分のような落ち着きっぷりは接していて物足りないに違いない。それなりに年を重ねてきたので、極力、そういった人を避けて、互いに接することなく生きている。
今、色々なメディアに顔を突っ込んで、書いたり話したりする仕事をしているが、「若い人たち」をターゲットにして、どうすればその人たちが振り向いてくれるかを考えなければならない場面がやってくる。自発的にそう思うのではなく、「そのあたりの反応が重要なんです」と言われるのだ。その度に思う。若い人って、すぐに若くなくなるけど、若くなくなった人って、だいぶ長い間、若くない人として生きることになる。だったら、そちらを意識すればいいのではないのだろうか、と。でも、いわゆるマーケティングの世界では、若い世代の反応が重要視され続ける。確かに「若い人たちの間でブーム!」という情報は半永久的に流れてくるし、それに苦言を呈したり、自分が若い頃にも流行ったから繰り返しているんだね、と喜んだりする。
そんなのどうでもよくないか。でも、それを声高に言ってはいけない雰囲気がある。いや、洋服やメイクのブームならば、言っても大丈夫。でも、「人」に対して言ってはいけない。新しく出てきた存在、流行り始めた存在が広がる。それに熱狂する。ネットならば、インフルエンサーになる。テレビならば、バラエティに出てくる。短いスパンで繰り返される。どんどん新しい人が出てきて、新しい人は、すぐに「新しかった人」になる。
これじゃいけないんじゃないか、と思っている。自分がラジオ番組を担当するようになって5年ほどが経過するが、ゲストを呼んでじっくりと話を聞く構成となっている。ゲストの人選はおおよそ自分に委ねられているのだが、常に「とびっきりの年長者を呼びたい」という意識がある。なかなか動いてくれなさそうな大御所でも、プロモーションがある時には動いてくれるかもしれないと、アンテナを張り巡らせておく。売り出し中のニューフェイスではなく、特に売り出さなくてもいい年長者の話を聞きたい。
結果として、数多くの「とびっきりの年長者」に話を聞いてきた。長いキャリアを積み上げてきた人は、人に話を聞かれることに慣れている。というか、飽きている。「〇〇になったきっかけは?」と聞こうものなら、饒舌には答えてくれるはずだが、実数値で1000回くらい答えてきた内容になる。そうではない言葉を引っ張り出すにはどうしたらいいのか。かといって、がさつに突っ込む相手ではない。このせめぎ合いが面白い。分厚い心の扉が開く瞬間はたまらないし、開けられなかったとしても、その扉に体当たりしていく様子を楽しんでくれているようならば、それはそれで楽しい。
自分がずっと憧れるのは、「ずっとなにかをやっている人」である。それは、いわゆる有名な人に限らない。この時代、即物的に目立つのは簡単である。突拍子もないことをして、SNSにアップすればいい。誰もが、瞬間的に「世界中の人が知っている人」になり得る可能性を持っているのは希望でもあるのだろう。そこを目指す人が多いが、自分はそうは思わない。今、この時代、最もなれないのって、「ずっとなにかをやっている人」である。明日、「世界中の人が知っている」状態にはなれるかもしれないけれど、明日、「なにかをずっとやっている人」にはなれない。
禅問答のようになるけれど、なにかをずっとやっている人になるためには、なにかをずっとやらなければいけないのである。このところ、この価値が軽んじられている。それをずっと思ってきた。今回のコラムのテーマは、編集者から、「砂鉄さんは、年配の方と話すのが上手ですよね」的な感じでふられた話なのだが、上手かどうかはさておき、「ずっとなにかをやっている人」の重みを自分なりに感じ取っているからなのだと思う。
テレビでもSNSでも街中の広告でも、そこには、「新しいもの」「リニューアルしたもの」「これからはこうなっていくと宣言されているもの」に溢れている。人も同じだ。それ自体に文句はない。そういうものだから。でも、だからこそ、自分は「ずっとなにかをやっている人」を追いかけたいし、簡単に消費されないために、今どうやったら影響力を持てるかよりも、「ずっとなにかをやっている人」を目指した助走を続けたいのだ。
写真:著作者 wirestock/出典 Freepik(トップ)、著作者 Freepik(文中)
著者:武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年生まれ。東京都出身。大学卒業後、出版社勤務を経て、2014年からフリー。『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす 』で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。他の著書に『日本の気配』『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』『マチズモを削り取れ』『べつに怒ってない』『今日拾った言葉たち』『父ではありませんが』『なんかいやな感じ』などがある。TBSラジオ『武田砂鉄のプレ金ナイト』でパーソナリティ、文化放送『大竹まことゴールデンラジオ!』火曜レギュラー。