書店主で著述家としても活躍している辻山良雄さんによる、本と読書についての連載の3回目をお届けします。読書を通じて自分を問い直し、アップデートすることがテーマです。今回取り上げたのは、やはり〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊。介護やシニアケア、そして育児の合間にふと見つけたエアスポットのような時間での読書からでも、少しずつ再生できる部分があるのかもしれません。
前回は、ミヒャエル・エンデの『モモ』を採り上げた。『モモ』は時間どろぼうにより、多くの人の時間がいつの間にか奪われてしまう物語。しかし「自分の時間もまた、何者かによって奪われているのではないか」と気がついたのは、胃にがんが見つかった母の看病で、神戸の病院まで通っていたときのことだった。
当時わたしは、ある書店チェーンの会社員で、東京・池袋の本店に勤務していた。毎日数千人の人が出入りするその店では、一日という時間はあっという間に過ぎ去る。出勤後、目の前の業務に追われていたらもう終業時間で、気がつけば昼食を食べそこねていたことなどざらにあった。
しかし、病室での時間はゆっくりと流れる。看病といってもわたしに出来ることと言えば、いちにち母の傍にいて、話し相手を務めることくらいだったから、彼女が眠っているあいだは持ってきた本を読むか、病室の窓から見える空を眺めていることが多かった。「先ほどから少しは時間が経ったか」と壁の時計を見上げても、時間はまだ三十分しか進んでいない。
だがそのようにじっくりとした、密度の濃い時間こそ、ほんらいわたしたちに与えられた時間のように思う。
わたしは病室の椅子に座っているあいだ、子どもだったときのことを思い出していた。学校から帰ってきて、外で友だちと遊んでいてもまだ暗くはなく、ようやく陽も暮れかけたころ、100mほどの短い距離を、家までゆっくりと歩いて帰った。同じ時間を与えられてはいても、子どもは大人の二倍、いや三倍、存分にその時間を生きているのではないか。もちろん大人のわたしにだって同じだけの時間は与えられているはずだが、その時間はどこに消えてしまったのだろう?
母が亡くなった二年後、わたしは独立して自分の店を開いた。それは様々な偶然が重なってのことだったが、その根底には、一度しかない人生、自分に与えられている時間を存分に生きてみたいという思いがあった。
本を読んでいると、さりげない描写などから、そうしたもとあった時間に触れるときがある。そのときわたしは、「そういえばこの世界には、風の心地よさもりんごの赤さも、雪のつめたさもあるんだった」と、不意に生きる手触りを思い出す。
詩人で絵本作家のマーガレット・ワイズ・ブラウンに『たいせつなこと』という絵本がある。目に映るものを、一つ一つ新鮮な驚きをもって言葉にした本で、そこにストーリーらしいストーリーは存在しない。
くさは みどり
くさは おおきく のびて
あまく あおい においで
やさしく つつみこんでくれる
でも くさに とって
たいせつなのは
かがやく みどり で あること
『たいせつなこと』より
写真上:『たいせつなこと』マーガレット・ワイズ・ブラウン著、レナード・ワイズブラウン絵、うちだややこ訳 フレーベル館
最近わたしは、草のあまい匂いを嗅いだだろうか? そもそも草に匂いがあること自体、忘れてはいなかったか?
絵本は、子どもがこの世界でさいしょに出会う本だから、それを開けば、世界の成り立ちがやさしい言葉で記されている。
だが、そうした言葉は大人のものでもあるだろう。ほんらいあった世界を忘れていたなら、いくつになっても出会い直せばよい。そうした〈生〉を感じるリハビリテーションに、詩や絵本は最適である。
見る、歩く、しゃべるといった、日々の生活で、あたりまえのように繰り返していること。その行為に意識的になり、そこに含まれているもの一つ一つを考えてみることで、わたしたちはそれまでとは違ったやりかたで、世界を感じることができるのではないか? 人類学者たちのフィールドワーク『世界をきちんとあじわうための本』(ホモ・サピエンスの道具研究会=企画)は、そうした問いかけに満ちた本である。
写真上:『世界をきちんとあじわうための本』ホモ・サピエンスの道具研究会 ELVIS PRESS
たとえば息を吸って吐くことに意識的になる、カバンの中に入っているものを取り出してみて、一つずつ見分する……。そうすることで、日常の行為にひそむものは自ずから明らかになっていく。
それはいつもの行為を、解像度高く見直すトレーニング。この本自体、もともと展覧会の記録集も兼ねており、読者自身が身の回りの世界を再発見してほしいと願い、書かれたものだ。
通常は〈ふとした感覚〉としてそのまま留め置かれそうな領域を、平易な言葉で言語化しようと試みるところに、この本のまれなすばらしさを感じる。人類学とは、所与の世界をあたりまえのものとはしない批判精神から生まれてくる学問だと思うが、「世界をきちんとあじわう」ことも、自らに対する疑いや、絶えることのない振り返りが必要なのだ。
誰もがそれまで疑うことなく進めていた歩みを、強制的に止めざるをえなくなった2020年の春。京都に暮らす独立研究者の森田真生さんは、全国を忙しく駆け回っていた生活にブレーキをかけ、身の回りにあった「庭」に目を向けはじめた。
『僕たちはどう生きるか めぐる季節と「再生」の物語』は、そうした新型コロナウイルスが世界中に広がりはじめて以降の記録である。そのあいだ森田さんは、幼い息子たちと鍬で土を耕し、菜園づくりに没頭した。そしてすぐ近くにあったその場所を改めてよく見ると、「庭」は驚異(ワンダー)に満ちた小宇宙で、草木や虫、小動物から成る生態系が網の目のように絡まり合う複雑な世界だった。もちろんその驚異は、誰にも隠されることなく以前からそこにあったが、人が見ようとしなければ決して見えてこないものだったのだ。
写真上:『僕たちはどう生きるか めぐる季節と「再生」の物語』森田真生著 集英社文庫
森田さんは息子たちと自然に触れ合うあいだ、他愛ない会話を楽しんでいる。子どもたちは思ったまま、感じたままを口にしているだけかもしれないが、それは目先の目的に縛られた大人からは出てこない言葉で、彼はその生き生きとした心の動きに気づかされることも多かった。
そもそも、生きていること自体がよろこびなのだ。子どもはそのよろこびに動かされ、身の回りにある自然と無理なく調和しているが、その場所から遠く離れてしまった大人たちは、周りの環境のほうを自分たちの都合のいいように変えてしまう。
だが、そうした脳内の世界に〈体〉は不在だろう。わたしたちは快・不快を、全身で世界から感じ取っているが、そうした体全体を使った交感が、よりよく生きているという実感につながっていく。わたしたちの体自体、その中には何兆もの微生物やウイルスがいて、思うに任せぬ〈自然〉が広がっている。そう考えると自然から人間を切り離そうとすること自体がナンセンスで、そこに人間としてのよろこびはないと思う。
森田さんと息子たちの歩みは、ますます〈脳〉が偏重されていくよのなかで、知性の別の使いかたがあることを教えてくれる。
写真(トップ):著作者:freepik
著者:辻山良雄
辻山良雄(つじやま・よしお) 1972年兵庫県生まれ。大手書店チェーン〈リブロ〉を退社後、2016年、東京・荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleを開業。書評やNHK「ラジオ深夜便」で本の紹介、ブックセレクションもおこなう。著書に『本屋、はじめました』『365日のほん』『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』がある。最新刊は『熱風』誌の連載をまとめた『しぶとい十人の本屋』(朝日出版社)。撮影:キッチンミノル