あなたの半径3m以内にもいるかもしれない!? 毒親未満の母と娘の関係性について考える連載。外国人の母親は祖国に愛人がおり、幼い娘には「ダディ」と呼ばせて、日本人の父親と区別していた。「ダディ」と別れた直後、娘のある言葉に母親は理性を失った行動を取る。問題行動ばかり起こす母親に対して、娘が下す決断とは。
海外で仕事をしていた父親と出会って国際結婚をして、日本にやってきたinkさんの母親。その後、inkさんが生まれ、父親の実家で父親の母親(inkさんの祖母)と同居することになりました。ただ、父親は海外を飛び回り留守にすることが多い中で、外国人の母とinkさんは日本語もままならず、 あまり家事をする習慣のない暮らしをしていた気性の激しい母親としっかり者の祖母との相性は最悪でした。日本での暮らしが上手くいかない母親は自分が生まれた国へinkさんを連れて、長期の帰省を繰り返していました。そのため、幼いころは母親の国の言葉の方が堪能だったというinkさん。帰国中の合間に通った日本の幼稚園では、ほかの園児と意志疎通ができず、つらい思いをしたそうです。
母親が長期で帰省するのは、日本での暮らしが上手くいかないということのほかにも理由がありました。母親には祖国に父親とは別に愛する男性がいたのです。inkさんはその男性のことを母親から「ダディ」と呼ぶように言われ、その存在を口外することを禁じられていました。ダディはinkさんにとても優しく、inkさんもダディに懐いていたそうです。大人の複雑な事情がわからない幼いinkさんは、日本には“父親”、母親の祖国には“ダディ”と、自分には2人のお父さんがいると信じていたそうです。
inkさんが日本の小学校へ入学したころ、祖母と別々に暮らすことになりました。日本語に不安のあるinkさんにとって日本の小学校での生活は困難を極めたそうです。しかし、子どもの柔軟性で徐々に日本語を覚えて、母親の通訳ができるほどにまで日本語が上達していきました。
小学校の授業参観のとき、クラスのみんなにはお父さんが1人しかいないことを疑問に思い、inkさんが友達に質問すると「お父さんは1人に決まっている」と言われてしまいます。祖母にも同じ質問をしたため、祖母はダディの存在を父親に伝えてしまいました。しかし、事なかれ主義の父親は「母親を信じる」として大ごとにはしませんでした。一方、授業参観から「ダディ」の存在に疑問を持つようになったinkさん。ある日、不倫を扱ったテレビドラマを見て「ダディ」と母親は不倫関係にあることを知ったのです。
小学3年生の夏休みの帰省時に、母親とダディは別れました。ダディが他の女性との結婚を決めたからです。帰路の飛行機の中でも現実を受け入れようとしない母親。到着した日本の空港でinkさんは母親を励ます気持ちと自分の存在を知らしめるように「(ダディと別れて)よかったのかもよ」とつぶやきました。すると、空港のど真ん中で母親はinkさんの頬をバチンと平手打ちをして、「誰のせいだと思っているの! あんたさえ、いなかったら…」と言い放ったのです。それまでにもinkさんは母親からの暴力での支配のための平手打ちはたびたび経験していましたが、そのとき、母親はinkさんに対して、母親と娘の枠を超え、娘に対し、女として腹を立てて平手打ちをしたのです。普通であればトラウマ級の出来事ですが、inkさんは母親と自分が対等になったと感じて歓喜したといいます。
母親はダディと別れたあとも夏休みのタイミングなどで帰省をしていましたが、9月を過ぎても日本に帰りたがらないため、inkさんは学校を休まなければなりません。それが嫌になっていったinkさんは、自分は日本に残り、祖母の家で過ごすようになります。母親とは相性の悪い祖母ですが、inkさんとはとても気が合ったそうです。
生まれ育った国の影響もあるのか、母親は「日本ほど自己犠牲を強いる母親像の浸透した国はないし、それを世間に強制されたくない」と、母親よりも女性として生きることを望んでいるようでした。家事や育児に消極的だった母親に対して、かいがいしくinkさんのお世話をしてくれる祖母との暮らしは楽しく、日本のことがどんどん好きになっていったそうです。そして、inkさんが小学校の高学年になるころには、一歩引いたところから母親を観察できるようになり、母親は母親、自分は自分と割り切るようになっていきました。
母親は日本にいるときは何だかんだと理由を付けて、まだ小学生のinkさんを家に残して夜まで出歩くことが少なくなかったといいます。父親は海外出張で家にはおらず、inkさんへの夕飯代が机に置かれていたそうです。ネグレクトのような状態ではありますが、絵を描くなど1人でいることが好きなinkさんはそれを嫌だと思うことはなかったそうです。
中高生になるとinkさんも自分の意見を言うようになり、気性の荒い母親の怒鳴り声に近所から苦情が来るくらい激しくぶつかり合うこともありました。そのうちにinkさんは子どもの相談に乗らないかわりに、干渉もしてこない母親とぶつからない距離感を学んでいきます。一方、向上心が高く常に現状に満足できない母親は日本の大学に通い始めます。しかし、そこでも人と上手に付き合うことができず、周りの人たちとたびたび衝突しているようでした。
inkさんが大学に入学すると反対する母親の説得を父親に頼み、一人暮らしを始めます。母親と完全に離れて暮らしたことで、母親との生活がいかにしんどいものであったかを実感したinkさん。卒業後すぐに結婚し、子どもが生まれました。旦那さんの家族を知ったことで、いかに自分の家庭が特殊な環境であったかを再認識したそうです。
しばらくして、父親の勤めていた会社が倒産してしまい、実家は金銭的に余裕がなくなっていました。そこで、inkさん一家が実家に同居して家賃を入れることで実家を助けることになりました。自由を望むのに人に依存したい母親は、inkさん家族が同居したことで、inkさんに幼い孫よりも自分の相手を優先させようとします。すると、幼稚園の先生から子どもの様子がおかしく、家にいるinkさんのことを心配しているようだという報告を受けました。そしてある日、最初は些細なことで感情が爆発した母親がinkさんに手を出しそうになったため、inkさんが自分の部屋に逃げ込むと、数時間に及びinkさんの部屋のドアを蹴飛ばし続けるという出来事が起こりました。旦那さんはinkさんから母親のあれこれを聞き、覚悟が出来ていたようでしたが、その状況に危機を感じ、inkさんの実家を出る決断をします。inkさんも「今の家族の方が大切」と同意しました。inkさん一家が実家を出たあと、母親はご近所ともトラブルを起こし、実家を売り払い、父親と違う街で暮らすようになりました。
inkさんが友人に母親の話をすると、たいていは縁を切ることを勧められるそうです。でもinkさんはここで縁を切ってしまうと母親のとの関係がトラウマになってしまうようで、それはしたくないといいます。
コロナ禍の直前に祖国に帰省した母親は、「コロナ禍が落ち着くまでは日本に帰らない」と3年近く、日本に帰ってきませんでした。その3年でinkさんの子どもは思春期に突入。帰国後、以前のようにおばあちゃんを慕わない孫にイライラを募らせた母親は、孫に対しても攻撃的な行動を取り始めました。
そこで改めてinkさんは今の家族の平和を母親に邪魔されることだけは嫌だと確信します。そして再び、母親と距離を取ることを決めました。だからといって、やはり母親と縁を切る選択はしていません。自分の身内内に恨んだり、タブーな存在を作りたくないからです。また、母親から人として軽蔑するようなことをされたこともありますが、育ててもらった感謝の気持ちを持っており、母親との問題を乗り越えていきたいという思いがあるのです。母親の根本的な部分が変わることがなければ、そして自分はそれとは違う生き方をするという信念さえブレなければ、縁は切らずに親子でいられると信じているそうです。inkさんは自分が子育てをするようになり、母親は反面教師として最高の存在で、自分が嫌だったことは絶対に自分の子どもにはしない子育てをしようと誓っています。
空港で平手打ちをされたときから、母親のことを母親として見ることができなくなったというinkさん。最後に、将来、母親に介護が必要になったときに自分がそれを担う自信はない、と正直な思いを語ってくれました。
上の絵は画家であるinkさんの作品。作品や母親とのことなどink さんの言
葉が綴られているnoteはこちらです。
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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