大切な人が病や老いによって元気な頃の面影を失いゆく様は、深いグリーフ(喪失体験がもたらす悲しみ)を引き起こします。そのグリーフにはやるせなさや無力さ、ときには疎ましさが混ざり合うことでしょう。避けられない変化との向き合い方を考えていきます。
「令和4年就業構造基本調査」(総務省)によると、調査年の直近1年間で介護・看護を理由に離職をした人は10万人以上に上ります。勤務先の両立支援制度の問題などさまざまな事情があると思いますが、心理的側面から見ると、従来の生活スタイルを捨て、親の介護を優先する背景には、子どもが介護を担うことが親への恩返し、親孝行になるという意識が垣間見られます。
中でも責任感が強い人、相手のグリーフを自分事として受け止める能力が高い人は、無意識の自己犠牲のうえに介護を成立させようとしがちです。しかし、親の近くにいる選択をして親と1対1の時間が増えると、精神的な負担が増して、親子関係がぎくしゃくすることも。
そうした事態を防ぐには、「一心同体にならないこと」が重要です。介護を受ける相手との間に透明な境界線を引くというような感覚です。境界線を越えてまで寄り添おうとしない。冷淡に感じるかもしれませんが、気持ちに余裕が生まれ、かえって優しくなれるものです。さらに賢明な判断が可能になり、一線を越えないために介護サービスを利用しようという選択肢も生まれます。物理的な距離を取るのが難しい人ほど心の距離感を意識してみましょう。
年齢を重ねると動作がゆるやかになり、食事をするにも倍の時間と手間がかかります。老いに伴う当然の現象と頭ではわかっていても、「早くして」と急かし、ときには「こんな生活、早く終わってほしい」と願ってしまう。大切な人のはずなのに疎ましい。そのアンビバレンス(愛憎感情)は介護をする人を混乱させます。
しかし、この場合の疎ましさは黒い感情とは限りません。あなたの優しさとも無関係です。できないことが増えた相手を前にして生じる切なさ、あるいは命の期限が頭をよぎる怖さなど、疎ましさの裏にはさまざまなグリーフが隠れています。介護という大変な局面でそのような感情がわくのはごく自然なことで、心の中で思う分には罪深いことではありません。
疎ましいという感情と距離を置きたいときは、介護を受ける人の現在の姿ではなく、これまで歩いてきた道のりに目を向けてみましょう。自分の学生時代に毎朝お弁当を作ってくれた母親の姿、仕事に精を出していた父親の背中……。時計を巻き戻し、家族や社会のために汗をかいてきた70年、80年の歳月に思いを馳せると、歩みをゆるめることを許せてねぎらいの気持ちが芽生えてきます。
大切な人を失う前からそのときを想像すると、涙があふれたり、何も手につかなくなったりします。このようなグリーフを「予期悲嘆」と呼びます。
予期悲嘆が起こると、この世に一人取り残されるような心細さがよぎります。しかし見方を変えると、いつか来る別れに向けて、心を構える時間を与えられたと捉えられます。事故や災害などの突然の別れは、予期悲嘆の猶予を与えられないため、現実を受け入れるのにより多くの時間を要し、想像を超える痛みを伴います。予期悲嘆は、素直な気持ちで大切な人と向き合う尊い時間をもたらします。また、心を構えられると喪失後のグリーフワーク(悲しみを受け入れ、癒やす過程)をスムーズに進める助けになります。
久しぶりに実家に帰り想像以上に小さくなった親を見ると、老いの足音が急に近く感じられます。一緒に暮らし、つぶさに変化を感じていても、少し前までできていたことができなくなるのを見ると、これが老いだとわかっていても切なさがこみ上げてくるものです。
親の老いを受け入れがたい背景には、いくつになっても親は子を守ってくれる存在という意識があるように思います。現実には立場が逆転し、子が親の面倒を見るようになり、自分の中にある「守ってくれる親」の像が崩れたとき、胸をしめつけられるようなやるせなさを伴うグリーフが立ち現れます。それを癒やすものがあるとすれば、「感謝の念」ではないでしょうか。止められない親の老いが物語る時間の有限性は、わだかまりがあればそれを解き、素直に「ありがとう」と感謝を言葉にできたときに流れる優しい感覚がグリーフをやわらげます。
また足腰が弱り、外出がままならなくなった親を不憫に思うことがあります。しかし老いとは豊かさを失うことではなく、豊かさの尺度が変わることなのだと思います。以前のように旅行はできないけれど、今はベランダで野菜を育てる時間に幸せを感じているかもしれません。年齢と共に幸せの形は変わると認識し、介護する人が豊かさの尺度を見直せると、老いを受け入れる器が広がります。
記憶障害は認知症の中核症状であり、記憶力が低下して同じことを何度も聞き返されるとついイラッとするものです。ここでは認知症への理解を深めるために、人の記憶のしくみを紹介します。
【記憶のしくみ】
人の記憶には短期記憶と長期記憶があります。
●短期記憶
外部からの情報が最初にストックされる記憶の貯蔵庫が短期記憶。認知症が進むと、短期記憶を長くとどめておくのが難しくなります。
●長期記憶
脳が覚えておこうと判断した記憶は長期記憶の貯蔵庫に入り、それらは4つに分類されます。
・意味記憶:言葉や文字、人の顔など学習などにより意識的に知り得た記憶。
・エピソード記憶:経験した出来事に関わる記憶。
・手続き記憶:服を着る、車を運転する、料理を作るなど動作に関する記憶。
・感情記憶:喜怒哀楽を体験した記憶。
認知症になるとまず短期記憶が失われ、次に長期記憶の意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶の順に支障が現れ、感情記憶は最後まで残ります。したがって、「20代の楽しかった思い出を聞かせて」など、感情を伴う事柄をフックに会話を進めると、穏やかなコミュニケーションを取り戻せます。親が歩んできた人生を知っておくと、その人らしい介護の実現にも役立ちます。また記憶を失くしていく本人も、自分が自分でなくなるような不安を伴うグリーフを抱えている場合があり、そう心得ると寄り添い方が変わるかもしれません。
避けては通れない老いという変化は、介護をする人、介護を受ける人の双方にさまざまなグリーフをもたらします。しかし、それは捉え方や心の距離の取り方次第で軽くなり、よりよい関係を結び直すチャンスになります。つらく感じるときほど意識を柔軟にして、グリーフが与える気づきに目を向けてみましょう。
著者:北林あい
医療・健康・介護分野のフリーライター、臨床傾聴士(上智大学グリーフケア研究所認定)。30代で乳がんになり、治療は順調に進み寛解を迎えたものの、穏やかな日常が突然奪われる怖さ、将来への漠然とした不安が消えない日々を過ごす。その経験から喪失悲嘆や心のケアの領域に興味を持ち、大学の研究・教育機関でグリーフケアを学び、臨床傾聴士の資格を取得。現在、乳がん患者や自殺念慮を抱える人を対象に、傾聴を通じたグリーフケアを行っている。