距離感の難しい母と娘の関係性について考える連載。東京と故郷・広島の二拠点生活で気づいた、高齢者の母親を取り巻く厳しい生活環境と孤独。都会生活者の視点で合理性を優先したことで母親を追い詰めてしまった娘に生じた自責の念……。きっと、読者の皆さんのうちの多くの方にも大きな気づきとなるのではないでしょうか。
会社員を経て起業し、仕事に邁進していたDさん。さまざまな事情で事業を手放し、新たな生活を始めようとした矢先、故郷で一人暮らしをする母親の変化に気づきました。
電話口から聞こえる母親の声に元気がなくなり、なにかと不安を訴えるのです。当時はコロナ禍ということもあり、世の中も暗く沈んでいた時期だったため、状況が落ち着けば、母親もまた元気になるだろうと考えていました。また、どんなに母親が心配でも、感染者の多い都会から娘が来ることを快く思わない人も地元ではいるのだろうと、直接母親に会いに行くことを躊躇していたそうです。
しかし、コロナ禍が落ち着いても母親が元気になることはありませんでした。それどころか食欲は落ち、不眠にも悩まされているといいます。心配するDさんが電話をしても「話すことが面倒くさい」と電話を切ることも。病院で検査をしても、身体に異常は見当たらないのに母親はどんどん“うつ”のような状態に。心配した実家のご近所さんからの電話がDさんに入るようになってしまいました。やがて、Dさんの事業がひと段落したことを見計らったように母親は体調を崩し、一人暮らしが困難になりました。
Dさんが子どもの頃は実家も事業をしており、母親は子育てをしながら社長である父親を陰に日向に支えていました。父親が脳梗塞になったことで事業を畳み、母親は10年間、一人で介護を頑張り、8年前に父親を看取りました。真面目な母親は、自身に与えられた任務や責任を果たすことが生き甲斐になっているようなところがありました。それらがなくなったことも元気がなくなった原因の1つかもしれません。
さらに体調を崩す少し前に母親の生活に欠かすことができなかった運転免許を返納し、自動車を手放しました。そのことがさらに母親の気力を奪ったのです。車で出かけることが気晴らしとなり、外出先で珍しいものが手に入るとご近所さんに振る舞うのが楽しみだった母親。それができなくなったことで引きこもりがちになり、気分が塞ぐ日が多くなってしまったようなのです。
母親が元気をなくして半年が過ぎたころ、激痩せした母親をかかりつけ医が心配し、体力を回復させるためしばらく入院することを勧めました。当時の母親は、誰の助言にも耳を貸そうとしないほど心が頑なになっていましたが、かかりつけ医の助言には心を開き、入院することを受け入れ、それをきっかけにDさんも母親の元に帰ることができました。
入院生活がしばらく続き、Dさんは実家暮らしを始めました。入院により母親の心身の衰えは随分と回復しましたが、退院後、一人暮らしが難しいことは明らかでした。母親の側にいるか、施設に入居してもらうか、いずれにしても新しい生活を準備する必要がありました。神戸に住む妹に相談するとDさんの生活も気にかけてくれ、妹の家の近くの施設に入所してもらうのはどうだろうかという提案をしてくれました。最終的な決断は母親に託すことにしましたが、母親は妹の提案に対して地元を離れ見知らぬ土地に住むことに難色を示しました。しかし、Dさんが地元で探した施設のパンフレットを手渡すと、「ここに行ってみようかしら」と前向きな返答をしたのです。同時に、いつでも母親が帰れるよう、Dさんが家を管理しながら二拠点生活をすることを決めました。その思いを伝えると母親は安堵の表情を浮かべ、心から喜んでいる様子でした。久しぶりに母親の朗らかな顔を見て、一人でいることがどれほど不安だったのか、本当はDさんに側にいてほしかったのだということがはじめてわかったのです。
母親が元気だった頃は、故郷で生活することなんて全く考えていなかったDさん。40年以上故郷を離れ、子育てや仕事など生活の拠点を東京で作ってきたDさんにとって、異なる環境に身を置くことに戸惑いもありました。しかし遠く離れて心配するよりも母親の近くにいたいという思いが勝り、Dさんの背中を押したのです。
あれから3年、Dさんの二拠点生活は続いています。母親の施設に定期的に面会に行き、ご近所づきあいや地域の行事に参加しながら1年の2/3は故郷で、残りの1/3は東京で自らのための時間を過ごしています。そしてこの二拠点生活は、Dさんにとって母親との関係性や自身の人生を振り返り、新しい視点を授けてくれる大きな転期になりました。
Dさんは母親が元気を失った当初はその状況を受け入れることができず、何とか元の母親に戻すことばかり考えていました。母親を励ましたり、頑張らせようとしたり、ときには思い通りに回復しない母親に感情的になってしまい、「こんなはずではない」とあがき、もがいていました。今思うと東京で暮らすことへの強いこだわり、母親と暮らすことへの躊躇が自分勝手な思いに至らせ、自分を正当化することで都会生活を必死に守ろうとしていたのです。しかも母親へのアドバイスは問題の解決を目指すことばかりで、今では考えられないほど傲慢な態度でした。そのDさんの言動がますます母親の不安感を募らせ、Dさんに甘えたくても甘えられない状況を作っていたことに気づいてもいませんでした。会社の経営者として知らず知らずのうちに身についてしまった効率優先かつ合理的な考え方は母親には一切通用しませんでした。それどころか、母親によってその考え方をいっぺんに覆された思いでした。
一方、生まれ育った故郷はDさんが子どもの頃とは様子が一変していました。びっしりと店が連なり活気に溢れていた商店街はシャッター通りと化し、高齢化や人口減少による過疎化、そして現代日本の地方の荒廃を反映する街並みへと変化。街全体がひっそりとしていました。
広島の県北に位置するDさんの故郷は、冬の最低気温は常に氷点下以下で、多いときは雪が1週間連続で降り続いたり、1m以上積もったりすることもあります。生活には困らない程度のインフラは整い、地域住民の支え合いは心の拠り所ではあるものの、気が晴れるようなことが少なく、母親のような一人暮らしの高齢者が家に閉じこもりがちになるのも珍しくありません。都会で暮らし、社会の一線で働くDさんにとって、母親のことは表面的には理解できても、深い部分でその気持ちを知ることは無理な話でした。それに気づいたのは、実家でオールシーズン暮らし、母親の生活を体験した後でした。都会であのまま生活をし続けていたら到底知り得なかっただろうと、自らの浅はかさに気付いたのです。
昨年の夏、24時間サポート体制の施設に移り、母親はやっと落ち着きを取り戻しました。しかし、最初に入居したサービス付き高齢者住宅では母親の不安感はなかなか解消せず、どうしたら良いのかわからない苛立ちでDさんは母親をつい批判的に見てしまうこともありました。そんなときDさんが出会った言葉が「全肯定」でした。
どこか自分の基準で母親を見てしまい、目の前の母親ではない幻想の母親を見ていたことに気づいたのです。現在の母親を正そうとするのではなく、「もう、昔の母親ではないのだ」ということを認め、今の母親の気持ちに近づく。それは、子どものころから母親の気持ちを忖度し、母親が望むことを先回りして行動していたDさんが母親に求めていた気持ちと重なりました。残念ながらDさんは、母親からその気持ちを感じ取ることはできませんでしたが、今、自分が母親にできることはこのことかもしれないと思ったそうです。母親から理解されなくても、母親を理解できなくても、仲むつましく穏やかに暮らす。それは母親だけではなく、娘や縁のある人たちと良好な人間関係を築く上で、大事なポイントではないかとDさんは考えています。
母親のことがきっかけで始まった二拠点生活。母親のことだけではなく、過疎の集落で暮らすということそれらすべてがDさんとってかけがえのない時間になっています。当初は都会に比べ、何もない田舎で何もしないことに耐え切れず、何かを始めようと考えていましたが、今は故郷で母親のそばに身を置く、ただそれだけでいいと感じています。
二拠点生活は大変だと思う人もいるでしょうし、母親はDさんが完全に故郷に戻ることを望んでいるかもしれません。しかし、無理なく二拠点生活を続けていく。今のDさんの幸せのカタチでもあります。それは、母親と故郷の暮らしが与えてくれた最高の贈り物なのです。
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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