高齢期では、知っているはずの名前や言葉がすぐに出てこないという現象がよく起こります。「ほら、あれ何だっけ?」「あれよ、あれ、えっと」などの独り言が始まり、会話が中断されてしまうことも少なくありません。
知っているはずのことをすぐに思い出せない理由は、「老化により忘れっぽくなるから」と思われがちですが、心理学的な研究からは異なる可能性が指摘されています。
「ほら、あれ何だっけ?」「あれよ、あれ、えっと」などと、喉まで出かかっているのに思い出せないことを、心理学ではTOT現象といいます。TOTとは、Tip of The Tongueの頭文字で、舌先までその言葉が出かかっているのに思い出せないことから、日本語では「舌先現象」や「舌端現象」とも呼ばれています。
TOT現象は、高齢者に限らず、日常的に誰にでも起こり得るものですが、若い人と比べると、高齢者にはより頻繁にTOT現象が生じることがわかっています。その理由は、「老化により忘れっぽくなるから」でも、「老化とともに記憶が消えてしまうから」でもありません。加齢とともに記憶が失われるのではなく、実はその逆で、年齢を重ねるほどに言葉に関する記憶が増えていくことが、TOT現象の要因の一つと考えられています。
多くの場合、子どもは知っている人に会ったときに、すぐにその人の名前を思い出します。ものの名称もすぐに出てくるので、「ほら、あれ何だっけ?」といったTOT現象を経験することはあまりありません。それは、子どもの記憶に保存されている人の名前やものの名称がそもそも限られており、そのなかから検索して思い出しているからです。
ところが高齢者の場合、長い人生において出会った多くの人の名前や、見聞きした膨大なものの名称などが記憶されています。蓄積された記憶のなかから、思い出したい言葉を探そうとするため、検索に時間がかかったり、情報を取り出すときにつかえたりしやすくなるのです。つまり、高齢者は豊富な言葉を記憶しているからこそ、検索が困難になりやすく、その結果、TOT現象が頻繁に起こると考えられています。
思い出したいときには出てこなくても、後からふいに言葉が出てくる場合も少なくありません。このことからも、記憶自体が失われたわけではないことが予測できます。
一般的に、「年をとると忘れっぽくなる」とよく言われますが、心理学的研究によると、記憶の機能への加齢の影響は部分的であることがわかっています。丸暗記のような機械的な記憶は20歳頃をピークとして、徐々に低下することが報告されていますが、何年も何十年も覚えている記憶〈長期記憶〉は、加齢の影響をほとんど受けない部分もあることが明らかになってきました。
代表的な長期記憶の種類には、言葉や知識、概念などに関する意味記憶、技能や一連の動作に関する手続き記憶、個人の経験や出来事に関するエピソード記憶などがあります。このなかで加齢の影響がほとんどなく、高齢になっても良好に維持されると考えられているのが、意味記憶と手続き記憶です。
意味記憶とは、言葉や知識、概念などの「意味」の記憶であり、一般的な知識として蓄えられている記憶を指します。例えば、漢字や単語の意味のほか、「日本一高い山は富士山」「雪は白色」といった知識のほか、人物の名前やものの名称なども含まれます。意味記憶は、何年も何十年も保存され、必要になったときに取り出すことで運用されています。
もう一つの手続き記憶とは、「やり方」の記憶のことです。例えば、自転車の乗り方、箸の使い方、ピアノの弾き方などのように、言葉で説明するのは難しくても、体が自然に動くような技能や動作が含まれます。手続き記憶は、一度身につけると長い間使わなくても比較的忘れにくいことが特徴です。若いときに身につけた技能や動作は、その頃と同じようにはできないかもしれませんが、高齢になっても体が覚えている場合が多くあります。
一方で、加齢の影響を受けやすいのがエピソード記憶です。エピソード記憶とは、自分が経験した出来事の記憶であり、「昨晩はどこで何を食べたか」「去年の夏休みは、どこに行ったか」のように「いつ」「どこで」という時間的・空間的な情報を伴う記憶です。
エピソード記憶の低下は、成人初期から始まることが知られています。しかし、自分では忘れたと思っていても、本当に記憶が消えてしまったわけではなく、時間を遡って上手く思い出すことができないだけというケースが多いようです。
長期記憶の種類と加齢の影響
長期記憶の種類と加齢の影響
■意味記憶 種類:言葉や知識、概念に関する記憶 加齢の影響:ほとんど受けない
■手続き記憶 種類:技能や一連の動作に関する記憶 加齢の影響:受けにくい
■エピソード記憶 種類:個人の経験や出来事に関する記憶 加齢の影響:受けやすい
日常生活に支障のない程度のエピソード記憶の低下は、加齢による通常のもの忘れと考えられますが、出来事の一部を忘れるだけでなく、出来事そのものを忘れてしまう場合には、認知症などの疾患を疑うサインとなります。
例えば、「昨日の夕食に何を食べたか」と突然尋ねられて、すぐに思い出せないといった経験が増えてくるのは、加齢に伴いエピソード記憶が低下していくためです。通常は自分が忘れたことを自覚しており、誰かから「昨日の夕食は〇〇だったよ」と教えてもらえれば、「ああ、そうだった」とすぐに思い出すことができます。
ところが、食事をしたという出来事自体の記憶がなく、忘れたことへの自覚がない場合には、認知症を疑う必要があります。認知症の記憶障害では、誰かに教えてもらっても思い出すことができないのも特徴です。
加齢による通常のもの忘れと認知症の記憶障害では、このように特徴が異なります。
通常のもの忘れと認知症の記憶障害

通常のもの忘れと認知症の記憶障害
●通常のもの忘れ
・体験の一部分を忘れる
・忘れた自覚がある
・ヒントがあれば思い出せる
・進行・悪化しない
・時間や場所などは正しく認識している
・日常生活に支障はない
●認知症の記憶障害
・体験全体を忘れる
・忘れた自覚がない
・ヒントがあっても思い出せない
・進行していく
・時間や場所などの認識が混乱している
・日常生活に支障がある
高齢期に「ほら、あれ何だっけ?」というTOT現象が増えるのは、加齢に伴う自然な変化の一つです。長い人生において蓄積された膨大な記憶のなかから思い出したいことを探すため、検索に時間がかかったり、情報を取り出すときにつかえたりしやすくなることがTOT現象の要因と考えられています。
高齢期においても、意味記憶や手続き記憶は比較的良好に維持される一方で、エピソード記憶は加齢の影響を顕著に受けることがわかってきました。日常生活に支障のない程度のエピソード記憶の低下は加齢による通常のもの忘れですが、出来事や体験そのものを忘れる、忘れたことへの自覚がない、日常生活に支障がある、という場合には、認知症の可能性もあるため医療機関に相談することが必要です。
写真:写真AC
著者:大谷佳子(おおや・よしこ)
イースタン・イリノイ大学オーナーズ・プログラム心理学科卒業、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ教育心理学修士課程修了。
昭和大学保健医療学部講師などを経て、2023年4月よりNHK学園社会福祉士養成課程講師。
主な近著は、『図解でわかる 高齢者の行動と心理』『対人援助職のための 自分にやさしくなれるココロ学』(中央法規出版)、『対人援助の現場で使える 傾聴する・受けとめる技術便利帖』『心理学に基づく 質問の技術』(翔泳社)など。