これは、50代の息子(著者・久保研二〈ケンジ〉)と80代の父親(久保治司〈ハルシ〉)が交わした日々の断片の記録です。数年前、息子は関西に住む父親を引き取って、2人で田舎暮らしを始めました。舞台は、山口県の萩市と山口市のほぼ真ん中に位置する山間部・佐々並(ささなみ)にある築100年の古民家です。ここで、歌や曲や文章を書くことを生業(なりわい)とするバツイチの息子と、アルツハイマー型認知症を患っているバツイチの父親が、関西人独特の「ボケ」と「ツッコミ」を繰り返しながら、ドタバタの介護の日々を送っています。
今日は夜に出かける用事があるので、ハルシがデイサービスから戻るのを待ち構えていました。ハルシが戻るなり、食卓につかせ、夕食の段取りを伝えます。
「ワシ、ちょっと今から、出かけなあかんからな」
「わかった」
「晩飯、ひとりで食いや、食えるやろ」
「そうする」
「これが、巻き寿司とお稲荷さん。別に無理して全部食わんでもええで。箸もお茶も、ここに置いとくさかいにな。お茶は、さっきこさえたばっかりや。コップも新しいのに替えてるからな。それから、こっちの小さいグラスは………、別に嫌やったら、飲まんでもええで」
「アホか? 誰が酒なんか残すかい。どうせやったら、もっと大きいコップに入れたらんかい!」
「よっしゃ、ほんならワシ行くで」
「何時頃に帰ってくるんや?」
「そうやなあ、夜中の11時頃やと思うから、ハルシはそれまで良い子で寝とり」
「わかった。良い子でお留守番をしてたらええんやな。森の狼が来ても、騙されへんようにしたらええんやな」
「……」
「ほんで、ところで、わざわざ夜に、いったいぜんたい、オマエはどこへ行くんや?」
「今日はな、音楽の仕事や。ワシは歌を聞きに行かなあかんねん。まあな、ハルシがどうしても行きたいと言うたら、連れていったってもええけどな、ハルシ、どこ行くのんも邪魔くさがるやろ」
「そや、邪魔くさい。ワシ、ここで屁ぇこいて寝とく」
「ほんなら、行ってくるわ」
「ところで、誰の歌を聞きに行くんや?」
「ハルシ、覚えてるかなあ……。ウチにも来たことある歌手の子やけどなあ、多分顔見たら思い出すかもしれんけど、名前はよう覚えんもんなあ……」
「………わかった! オチアイや、オチアイサトコや!」
「ヒエ〜! えらい今日は冴えてるなあ、当たりやわ……」
「ほんならワシも行くわ」
「寝言は寝て言いや」
「行くと言うとるがな」
「ほんまかいや? 夜かえってくるのん、遅うなるで」
「明日は病院、休みやさかい、そんなもん関係ない」
「ヒエ~……ほんなら早よ準備せえ! 予定が狂いまくりや……。一応、替えのオムツとバスタオルは持っていくわ。途中で何が起こるか、わからんからな……」
「そうやそうや、何が起こるかわからんで」
「自分で言うな! とにかく、便所行って、出すもん全部出してこい!」
その数日後──。
地元テレビ局の朝の情報番組で、オチアイサトコの弾き語りライブの模様が放送されることになりました。ライブ会場は、山口県山陽小野田市にある「コミュニティカフェ&リカーショップ・ワカヤマ」さんです。
放送は朝の7時25分から始まるのですが、それを見るためにハルシはなんと、昨夜午前2時から、ずっと眠らずに起きておりました。寝過ごすのを恐れたからです。
ハルシはそのテレビ局にチャンネルをあわせたまま、夜中じゅうずっと朝までテレビをつけっぱなし。私はたまったもんではありません。
さて、5時間以上も待ったハルシ、テレビの画面を食い入るように見ながら…、
「ワシ、この店に行ったことあるわ」
「当たり前やがな。そやから、わざわざ見てるんとちゃうんかい?」
「おいっ、この歌を歌うとる女の人、ワシ知っとるぞ」
「そら知ってるやろ? その人から、今朝放送のテレビを見てくれと、治っさん、直に言われたんとちゃうんかい?」
「そう言えばそうやったなあ……」
「大丈夫か? 頭、生きてるか? 脳みそ、腐ってないか?」
「いつもだいたいワシの頭は、特急とまではいかんでも、まあ、急行ぐらいやねんけどな……今日はたしかに、準急やな……」
「準急? ワシはなあ、治っさん。無理も贅沢も言わへん。のぞみでも、ひかりでも、こだまでも、つばめでも、そんなもんまでの高望みはせえへん。
せめて各駅停車……わかるか? 阪神電車の、オレンジ色やのうて、青色の電車や……梅田を出たら、福島・野田・淀川・千船・杭瀬・大物・尼崎・出屋敷・センタープール前・武庫川・鳴尾・甲子園や。なっ、わかるか? 各駅停車、つまり「普通」でええねん。ハルシが普通の頭でさえあったら、それでワシは嬉しいんや」
「オマエはアホか?」
「どこがアホやねん? 言うてみいや!」
「よう頭を冷やして考えてみい。『淀川』の次の『姫島』を忘れとるやないかい」
「ひえ~い、しっつれいしました〜」
「おいっケンジ。ワシ、いっぺんオマエに言おうと思ってたんやけどな」
「なんや? 治っさん、遠慮せんと十回でも百回でも、言うてみいや」
「アホか? そんなもん、ワシが何回も言うかい! だいたい久保のウチはなあ、代々無口なんで有名なんや。ウチの家系でベラベラとしゃべるのは、オマエ一人じゃ!」
「さよか(左様でございますか?の略=そうですか?の意)。そら悪かったなあ……。
それで、ワシに言わないかんことって、いったいなんやねん?」
「それや、危ない危ない。もうちょっとでそれを忘れるとこやった。あのな、ワシが言いたいのんはやなあ、やっぱり、……朝はパンがええな、ということや」
「あのなあ治っさん。ええか?
まずひとつ。それは今まで、治っさんの口から、何百回も聞いた話や。
それからふたあつ。治っさん、病院休みやからゆうて、すっかり寝坊して起きてけえへんかったから、実は今はもう昼前や」
「ワシにとったら、これが朝飯じゃ」
「ハルシにとったらそうかもしらんけど、ワシは、朝から起きて、お茶漬け食うて、洗濯して、風呂洗うて、お地蔵さんの横にあるポストのとこまで、郵便物を放りこみがてらに散歩して、それから珈琲をいれてパン焼いて……。そやからこれが今日の2食目や。立派な昼めしやがな」
「今日のパンには、茄子の漬もんが入っとるから、余計に美味いなあ」
「それは漬け物やない。ナスの上にハムとチーズをのせてから焼いとるんや。
さて、食い終わったら忘れんうちに、薬飲まなあかんで」
「これ、なんの薬や?」
「いっつも飲んでる薬やないかい?」
「いつ飲んでるねん?」
「毎日、朝飯のあとと晩飯のあとに、必ず飲んでるやないかい。この薬を飲まへんと、爺さんみたいに、夜中に血圧上がって、寝てるうちに死んでまうかもしれんで」
「ほんなら何かい? ワシは今、この薬を飲んだらええんやな」
「今さら何を寝ぼけたことを言うてるんや? さっさと飲みなはれ」
「これ、朝の薬やないかい? ほんならやっぱり、今食うたんは、朝飯とちゃうんかい?」
「はいはい、朝飯、朝飯……」
写真(トップ):PIXTA
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著者:久保研二
久保研二(くぼ・けんじ)
作家(作詞・作曲・小説・エッセイ・評論)、音楽プロデューサー、ラジオパーソナリティ
1960年、兵庫県尼崎市生まれ。関西学院中学部・高等部卒。サブカルチャー系大型リサイクルショップの草創期の中核を担う。2007年より山口県に移住、豊かな自然の中で父親の介護をしつつ作家業に専念。地元テレビ局の歌番組『山口でうまれた歌』に100曲近い楽曲を提供。また、ノンジャンルの幅広い知識と経験をダミ声の関西弁で語るそのキャラクターから、ラジオパーソナリティや講演などでも活躍中。2022年、CD『ギターで歌う童謡唱歌』を監修。
プロフィール・本文イラスト:落合さとこ
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