その1:介護の始まりに年齢は関係ない
その2:何かを決断するときのヒントをたくさんストックしておく
私の家族介護は3歳から始まっていた!? 自己紹介とあわせて、これまでの家族介護歴やそこで感じたことをなどを振り返ります。
 
1. はじめまして、家族介護歴20年以上の岡崎杏里と申します
両親の介護や看病を経験し、介護エッセイや介護に関する記事を執筆しているライターの岡崎杏里と申します。このたび、人生の半分以上!?も関わっている家族介護の体験者だからこそ、みなさんに伝えたい「親の介護をする前に知っておきたかった12のこと」として、全6回の連載を担当することになりました。
 
「介護」に対しては“大変”や“きつい”といったマイナスなイメージを持たれている方も少なくないと思います。でも、私の代表作である『笑う介護。』(成美堂出版)という著書からもわかるように、私のモットーは「介護の中に笑いを見つけること」です。
 
 
とはいえ、私は心のキャパシティが非常に狭い人間です。介護から逃げ出したくなることや、落ち込んでなかなか立ち直れないこともありました。そこで、介護のリアル、ときにブラックな部分まであくまで我が家の話ではありますが、「親の介護が始まる前に知っておきたかったこと」として、お伝えします。介護中の方には「わかる、わかる」、介護未経験の方は「へえ、そうなんだ」などとつぶやきながら読んでいただければ幸いです。
 
2. その1:介護の始まりに年齢は関係ない
まずは自己紹介ということで、私の家族介護な半生と、当時を振り返って思ったことなどをまとめてみました。
 
3歳、私の家族介護歴がスタートしました。父方の祖母が緑内障の悪化で緊急手術、その付き添いをしていた母が流産、そして、父までも腎臓結石で緊急手術という4人家族のうちの3人が入院する“一家総倒れ”状態となり、幼い私は東北地方の母方の実家に預けられました。迎えに来た母に「誰?」と言い放ったことは、今でも親戚に語り継がれています。
 
小学1年生、父方の祖母にガンが見つかりました。父は事業を立ち上げたばかりで仕事が忙しく、母は祖母の介護のため、病院に泊まり込みで介護をする日々が続きました。いつも一人で家にいた私を、隣のおじいさんとおばあさんのお世話に来ていた家政婦さんが不憫に思い、私のお世話もしてくれることになりました。
今にして思うと、この幼少期の親に甘える(人に頼る)ことができなかった経験が、その後の介護生活をこじらせることになります。
 
中学生から高校生の時期、祖母の介護で母が身体を壊し、入退院を繰り返すようになりました。隣に来ていた家政婦さんによるサポートは金銭的な問題もあり、両親により却下。家事や母の看病をするヤングケアラー(18歳未満家族のケアや家事を担う子ども)となりました。
一人っ子ゆえ、学校、部活、家のことなどを、一人ですべてを背負い込むことになりました。この経験も、以後の両親の介護と看病で私を苦しめる要因になりました。
 
大学入学直後、父が脳梗塞で入院。思い返せば、じわりじわりと血管性認知症の魔の手が迫りつつあったのかもしれません。
 
社会人1年目、父が脳出血により救急搬送されました。53歳で若年性認知症(血管性認知症)という診断がくだります。しばらくは母と二人三脚で父の介護をするも、3年後、母にガンが見つかりました。母は手術ののち、抗ガン剤治療を受けることに。両親の介護と看病で自身の心身のキャパを遥かに超えていても、幼少期の経験の影響からか、人に頼ることができず、ヤングケアラーの延長のように「私が頑張らねば!」と一人で抱え込み、心のバランスを崩してしまいました。3歳以来、二度目の“一家総倒れ”状態となったのです。
 
“一家総倒れ”の経験は、思い出したくもない苦い経験です。一方で、一人では乗り越えられなくても、周りの助けや介護のプロの力を借りれば介護する人の心身の健康を保ち、自分の時間を持ちながら家族の介護ができる。もし、そのことを事前に知っていれば二度目の“一家総倒れ”は防げたかもしれません。
その後、母はガンから奇跡的に復活を果たし、父は介護サービスにより穏やかな生活を送り、私も介護エッセイスト・ライターという目標を見つけ、前を向いて歩き始めました。
 
 
さらに健康的な家庭を作りたくて『婚活なヒトビト。』(成美堂出版)という著書を出すほど婚活に励みました。紆余曲折の末に夫と出会い、結婚。息子を授かります。ところが、息子が幼稚園のときに発達障害(自閉スペクトラム症)だということが判明。父の介護に加えて、息子の療育(自立して生活ができるように支援する取り組み)に通うという、ダブルケアラー(複数のケアを担う人)になってしまったのです。なのにそのタイミングで、夫は長年の夢であった海外で仕事をすることに。息子が1歳から5歳まで、ワンオペ育児・介護状態の日々を送りました。
人のケアをすることの大変さはこれまでの経験から痛いほど知っているので、もう一人ですべてを抱え込みません。父の介護経験で福祉を活用する重要性を痛感するようになりました。「いつかお返しします!」という思いで人に頼り、療育の専門家に助けを求めて、息子が生きやすい環境づくりを模索しました。
 
上手く回り始めたように見えた私の人生。やっぱり、一筋縄ではいきません。母が2017年に腕の骨折をしたころから体調を崩し、2020年にはパーキンソン症候群により要介護2とになってしまいました。父、母、息子の“トリプルケア”状態に突入です。
 
 
親が元気なうちに「もしも…」について話し合うことが、いかに大切かを痛感するも、うちの両親は
「もしも」なんて考える前の50代にして、その日を生きるのに精いっぱいになってしまいました。そのため、元気だったころの両親の記憶を頼りに、一人娘の私が父の施設入所や母の介護などに関する選択を代わりに決断するという、重すぎる責任を負うことになりました。難しい決断の連続でしたが、幼い息子を抱えて、三度目の“一家総倒れ”になることだけは避けなければなりません。
冷静に、客観的に、「何がベストなのか?」と考えた結果、父が生まれ育った大好きな街で施設を探し、そこへ入所してもらうことを決断しました(母は最後まで渋っていましたが…)。
2020年の春、父は無事に特別養護老人ホームへ入所。今度は母の在宅介護と向き合おうとした矢先、母は2020年の年末に自宅のお風呂から天国に旅立ってしまいました。
 
父が施設介護となっても、介護が終わったわけではありません。在宅介護に比べて施設介護のことはあまり語られることがないように思いますが、正直、思った以上に施設に入所しても家族としてやらなければならないことがあるのです(そのあたりはまた今度)。小学生になった息子は療育を続けていることもあり、だいぶ手が掛からなくなりました。それでも、成長とともに新たな問題が生じ、彼が穏やかに生活できる環境づくりを今も模索しています。
 
3. その2:何かを決断するときのヒントをたくさんストックしておく
親の介護が始まるのは「高齢で認知症になってから…」などと遠い未来のことだと捉えている人がいるかもしれません。でも、岡崎家にそれはまったく当てはまりませんでした。「介護の始まりに年齢は関係ない」のです。
親の介護が始まったら、介護している親に関する数々の決断を子どもが担うことになります。オムツ交換など直接的な介護が大変だという話はよくありますが、「親の人生の重要な決断が次々にやってくる」ということはあまり語られていないように思います。介護生活で「絶対に仕事は続ける」など介護者がブレない軸を持たなかったり、親が望んでいることを知らないと「この決断は正しいのか?」とジワリジワリと介護者の心が蝕まれていきます。そういった心の負担の軽減や、介護の中でささやかな喜びを見つけるためにも「お父さん(お母さん)はこんなことが好きだった」など、どんな些細なことでも何かを決断するときのヒントをあなたの中にたくさんストックしておいてください。
 
この記事の提供元
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著者:岡崎 杏里

大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
https://anriokazaki.net/

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