書店主で著述家としても活躍している辻山良雄さんによる、本と読書についての連載の2回目をお届けします。読書を通じて自分を問い直し、アップデートすることがテーマです。今回取り上げたのは、空間や時間を通して〈自分〉を考えさせられる2冊。素の自分に戻るきっかけとしての読書、そして介護──そう考えると、自分の中で新しい意味合いが生まれてくるかもしれません。

1. 本は〈わたし〉を思い出させてくれる

気がつけばスマートフォンを動かす手が止められず、ふと時計を見ると、いつの間にか何時間か経過している──わたしにはそんなことがよくあって、「いったいこの時間何をやっていたのだろう」と、その度ごとに落ち込むが、そんなときには決まって、脳と体とがバラバラになっている感覚がある。体は元気なんだけど、脳みそだけがぐったり疲れているというか。

現代人の日常では、そのような時間が加速度的に増えている。それを自分でもつらく思っているのだけど、いまさら止める手立てもない。そしてその間触れている言葉といえば、人の耳目を惹くための欲望や劣等感を煽るもの。そうした言葉には人を依存させる性質もあるから、これはなかなかしんどいことだ。

前回にも書いたことだが、そうした「何か不安だ、しんどい」といったとき、ほかのどの場所にもつながっていない〈本〉は、人の感情を無理に煽らず、返って癒しとなるものだ。大した目的もなく本に触れているときなど、「そういえば、わたしはこんな人間だったな」と、どこか遠くに置いてきた〈わたし〉を思い出す。そしてそれこそが、我に返るということではないだろうか。

そうして我に返ったとき、〈わたし〉というものがふたたび、無理なく一つの身体に収まるのだと思う。

2. 「ただの私」でいられる場所|『共有地をつくる わたしの「実践私有批判」』平川克美

文筆家の平川克美さんは、際限なく人の欲望を刺激する「私有」という制度を建設的に批判し、社会のどこか片隅にでも、非・私有的な空間があるべきではないかと考えた。平川さんは、2022年の著書『共有地をつくる わたしの「実践私有批判」』で、資本主義とは異なる原理で動く共生社会(=共有地)の可能性を考察した。

共有地とは誰でも出入り自由で、それでいて誰のものでもない、アジールのような場所。この本で例として挙げられているのは、銭湯や食堂、喫茶店などだが、そこに酒場や本屋を加えてもよいかもしれない。つまり「ただの私」としていることができ、それでいて他者の存在も感じられる、ヒューマンスケールの空間だ。わたしたちのいるこの社会は、そうした共有地が増えるだけで、ずいぶん風通しのよいものになるのではないかと、平川さんは言う。



面白いのは平川さん自身、長年会社を経営し、企業の論理も知り尽くした果てに、品川区の商店街にある「隣町珈琲」という喫茶店の店主にまで辿りついたことである。

文筆家としての平川さんは、『反戦略的ビジネスのすすめ』、『経済成長という病』といった、経営者としての自己を否定するような本を長らく書いてきた。もともと、そうした相反するものがありながら、それに続く両親の介護という体験もあってか(介護はときに、介護する人をその人自身に戻す)、平川さんの消せない地金というものが、ふたたび浮かび上がってきたのかもしれない。本書は、そうした平川さんのライフヒストリーを辿りながら、それが最終的に「共有地」という思考に流れ込む実践的な評論だが、わたしはそこに、我に返るという視点を感じた。


無理に成長を迫られるわけでもなく、本来必要のない欲望を刺激されない共有地では、人はその人自身でいることができる。何者かによって吊り上げられていた意識は、いま・ここに、帰ってくるだろう。そうした場所でこそわたしたちは、自分自身を生きているという実感を、取り戻すことができるのかもしれない。


写真下『共有地をつくる:わたしの「実践私有批判」』平川克美著 ミシマ社

「ただの私」でいられる場所|『共有地をつくる わたしの「実践私有批判」』平川克美

3. 冒険譚に潜んだ鋭利な社会批評|『モモ』ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳

そうした、いま・ここにある時間は、ゆったりとした、確かな重みのあるもので、例えば〈1時間〉という時間が、いつの間にかどこかに消えてなくなることはなく、本来の1時間そのものとして存在する。

だが現代人は、そうした質量のある確かな時間を、心の底では憎んでいるのかもしれない。

「けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。

人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです」
(ミヒャエル・エンデ『モモ』,岩波書店,1976年,P.95)



ミヒャエル・エンデのファンタジー『モモ』(大島かおり=訳)において、人びとは時間どろぼうである「灰色の男たち」に、自らの時間を進んで差し出した。灰色の男たちがささやくのは、「時間の貯蓄」というもうけ話だ。

「体が不自由なお母さんは、安くていい養老院に入れてもよいでしょう。本や映画といった無駄な時間は即刻中止。一人のお客さんには一時間もかけないで、十五分で済ませましょう。役立たずのボタンインコなどは飼うことを止めなさい。そうすれば、一日にまる一時間も節約できるでしょう」云々。


確かに彼らの言うとおりにすれば、時間は短縮できたのだが、節約したはずの時間は手元には残らず、跡形もなくどこかに消えてしまう。そして人びとの生活は日ごとに貧しく、画一的に、冷たくなっていくのだが、誰一人そのことを認めようとはしなかった……。

わたしがここで書いているのは、物語のあらすじであって、いま起きていることではない。だがこの世界のことを思い出さずにいられないのは、『モモ』が時間を取り戻すための冒険譚であるのと同時に、きわめて鋭利な社会批評ともなっているからだ。

灰色の男たちが人の時間を奪うこととは反対に、モモは惜しみなく人に時間を分け与えることができた。そしてそのことは、ひとりひとりの話をよく聴くというやり方で行われた。

「世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない。だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ」。

(ミヒャエル・エンデ『モモ』,岩波書店,1976年,P.22)

モモに話を聴いてもらった人物は、生き返ったかのように、口々にそう語る。そのとき彼らは、循環する時間がふたたび、自らのうちに流れるのを感じていただろう。それは数値では計ることのできない、その人にだけ存在する固有の時間だ。

灰色の男たちがやってきてからというもの、人びとはずっと我を忘れているように見えた。そして、その我を忘れていることに対し自覚的でいるためにも、わたしたちは我に返るための方法を、常に手にしておかなければならないのだろう。


写真下:『モモ』ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳 岩波書店







※前回の記事 → 読むことと〈わたし〉|〈わたし〉になるための読書



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著者:辻山良雄

辻山良雄(つじやま・よしお) 1972年兵庫県生まれ。大手書店チェーン〈リブロ〉を退社後、2016年、東京・荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleを開業。書評やNHK「ラジオ深夜便」で本の紹介、ブックセレクションもおこなう。著書に『本屋、はじめました』『365日のほん』『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』がある。最新刊は『熱風』誌の連載をまとめた『しぶとい十人の本屋』(朝日出版社)。撮影:キッチンミノル

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