介護やケアに関する書籍の著者さんに、本にまつわるお話をお聞きしていく企画の第2回目。今回は「元祖ヤングケアラー」として知られ、昨年、著書『受援力』で、自身の介護経験をもとに、ケアラーにとって必要なサポートや心の持ち方を綴ったフリーアナウンサーの町亞聖さんです。「ヤングケアラー」という概念すらなかった時代、18歳で家族の介護に直面した町さんに、アナウンサーとして、著者として伝えたい想いを伺いました。

1. 18歳、高校生で始まった介護

昨年発売された町亞聖さんの著書『受援力』は、こんな言葉で始まります。


「もしタイムマシーンがあったなら……」(略)私は病気の後遺症のために身体が不自由になり言葉を失った母親が眠るベッドサイドに、ポツンと座っているセーラー服姿の私の元に行き「ようやく見つけてもらえたから」と声を掛けてあげたい。(『受援力』p.4~5)

「元祖ヤングケアラー」として知られるフリーアナウンサーの町亞聖さんが介護に直面したのは、1990年、18歳のときでした。当時まだ40歳で、昨日まで元気だったはずのお母さまが突然くも膜下出血になり、右半身麻痺と失語症という言語障害を持つことになったのです。

「当時は介護保険制度が始まる前で、福祉の分野で受けられる公的な支援も非常に限られていました。妹はまだ小学校6年生、弟も中学3年生。二人を社会人にするまでは、私が歯を食いしばってでも生き抜かないと、と思っていました。あの頃は誰よりも自分自身が『人生を諦めたくない』と思っていました」

高校生だった町さんはその日から突然、毎日の家事、お母さまのこと、妹弟の学校にまつわる様々な対応、家計のやりくりまで担うことになりました。友人や学校の先生、周囲の人たちから「偉いね」と賞賛の言葉をもらうことはあっても、根本的な「助け」や「共感」を得ることは難しかったという町さん。今のようにSNSもなく、「介護」や「ヤングケアラー」という概念すらない時代で、同じような境遇にいる仲間と出会うことはなかったそうです。

「母のリハビリで片麻痺の症状を持つ方たちの油絵教室に行っていたのですが、そこに通う人たちはもちろん母よりも上の世代の人たちばかり。当然、付き添いの方も年上です。本人が40代で、付き添いが10代、というケースはなかなか無いですよね。ただ、病院に入院していた時に、他の患者さんのお見舞いに来ているご家族を見かけることはあって、あぁ同じような境遇の人がいるんだなとは思っていました」

自分と同じように困難に直面したり、生きづらさを抱えたりする人たちがいる。そういう人たちの声を届けたいという思いが、町さんがアナウンサーを志す原動力になったそうです。


受援力書影

『受援力』(法研) ※筆者撮影

2. 母の介護は自立支援そのものだった

制度も知識もない中で始まった介護生活でしたが、町さんが試行錯誤の中で行ってきたことは、現代の介護の理想的なアプローチである「自立支援」そのものだったと後に気が付きます 。

右半身麻痺で利き手が使えず、言語障害もあったお母さまに対し、町さんは「なるべく出来ることはやってもらおう」という姿勢を貫きました。時間はかかっても「お母さん、やろう」と声をかけ、洗濯物をたたむ、掃除機をかけるなど、生活のあらゆる場面で「出来ること」を見つけてサポートしたのです。

「母自身も、何でも諦めずに、時間がかかっても丁寧に取り組んでいました。食器洗いも、片手だから割ってしまうかなと最初は心配だったのですが、シンクの中に桶を一つ置いて全部そこに一回浸けておくようにしたり、母がやりやすい方法を考えて工夫していました。結局、お茶椀を割ってしまうのは私だったりするんですよね」

そんな町さんですが、一つだけ心残りがあるといいます。それは、料理の全行程を、町さんが担当してしまったこと。

「私、料理がなかなか上手くできなかったんですよ。18歳の高校生なのだから仕方がないと周りは言ってくれましたが、当事、それが悔しくてしょうがなくて。つい頑張ってしまいました。お味噌汁をかき混ぜるくらいは母にもしてもらっていたのですが、もしかしたら料理については、私が母から奪ってしまったのかもしれません」

もし周りが『お母さんは障害者になってしまったのだから何もできない』と決めつけていたら、もっとたくさんの「出来ること」を奪ってしまっていただろうと、町さんは振り返ります。

「取材をしていると、例えば認知症と診断された方が、周りから心配されて玄関に鍵をかけられてしまったり、職場じゃなくてデイサービスに行きましょうと言われてショックを受けたり、本当は出来ることがあるのに、それがうまく伝わっていないことがあると感じています。周りが最初から『認知症だから』『障害者だから』と思い込んでしまうのは残念なことです」

町亜聖さんとお母様

1998年頃の町さんとお母さま

3. 仕事と介護の両立に必要な2つのこと

在宅介護を続けながら大学へ進学し、夢を叶えて1995年にアナウンサーとして日本テレビに入社。それは町さんの「ビジネスケアラー」としてのスタートでもありました。

当初、家のことと両立する難しさを懸念していましたが、結果的にアナウンサーという仕事のフレックスな働き方が合っていたといいます。

「入社して最初は夜のスポーツ番組を担当したので、出社は昼か夕方から。そうすると、午前中は空いているんですよね。買い物に行って、ごはんを作って、作り置きをして、慌ただしく出かけていく。もちろん、帰ってくるのは夜中なのにまた翌朝早く起きなければならないことは大変でしたが」

テレビの世界でスポットライトが当たる自分と、家に帰ればエプロンをしてご飯を作る「一家のお姉ちゃん」である自分。このスイッチの切り替えが、仕事と介護の狭間で自分を保つ助けにもなったそうです。

町さんはご自身の経験から、仕事と介護を両立するために不可欠な要素として、次の2点を挙げています。

介護と仕事の両立を実現するためにはどうしたらいいのか?その答えは私の中では30年前から明白です。周囲に気を遣わないこと、そして一日も早くその人のライフスタイルに合った<柔軟な働き方>を導入すること。(『受援力』p192より)


会社が柔軟な体制を整えることと同時に、働く側からも自分の状況をオープンにし、希望や意思を伝えることが大切だと言います。町さんの妹さんは就職時にお母さまのことを説明し、転勤は難しいと正直に伝えると、会社もそれを理解してくれたそうです。

「みんなが同じ働き方しかできないと、どうしても周りに申し訳なさを感じやすい状況になりがちです。本人だけで解決できない働き方の工夫は、会社が一緒に考えるべきだと思います。私の職場の人たちは、理解し、温かく見守ってくれました。私に気を遣わせないようにしてくれたのはありがたかったですね」

過度に周囲に気を遣ったり、申し訳ないと思ったりする必要はない。それは、仕事との両立についてだけでなく、介護生活全般で大切なことなのかもしれません。この考え方は『受援力』のテーマにもつながっています。

4. 父から感じた「受援力」の必要性

町さんがこの書籍を世に送り出した背景には、お母さまの介護とは対照的に、お父さまの最期に感じた後悔や反省がありました。

「母の介護では最善を尽くせた一方で、父については、もっと何かしてあげられることがあったのではないかと……。母が亡くなった後、父はだんだん食事をとらなくなり、お酒ばかり飲むようになりました。生きるのを諦めていったというか、緩やかに死に向かって戻れないところまでいき、心身ともに弱ってしまったんです」

深い悲しみの中で自分の体調も顧みず、塞ぎ込んでいたお父さまが、もし弱音を吐けていたら。もし周りに助けを求めることができていたら、と町さんは後悔をにじませます。

「娘が頑張っていると思うと、父は弱音を吐けなかったのだろうと思います。父に弱音を言いづらくさせていたのは、もしかしたら私だったのかもしれません。悲しい時は涙を流して、頑張れない時は頑張らなくていいんですよ。時にはちょっと立ち止まることも必要。そういう思いを込めて、この本を書きました」

町さんは、介護生活において最も大切なことは「受援力」、すなわち「困った時に誰かに助けを求めることが出来る力」であるという確信に至りました。介護はなかなか終わりが見えないマラソンのようなものです。すべてを一人で抱え込み、頑張り続けてしまうと、肉体的・精神的に追い詰められ、共倒れを招いてしまいかねません。

「実は母はすごく受援力に満ちた人だったんです。ちゃんと『助けて』と言える人でした。それは決して弱いことではなくて、生きるために必要なこと。母は言葉が不自由だったのですが、周りの人によく『すみませ~ん』と声をかけていました。その『すみません』は、決して『申し訳ない』という意味ではないんですよね。『ちょっと手伝ってください』とか、英語で言う『Excuse me』だったんだなって」

5. アナウンサーとして、社会に声を届ける

いまや医療や介護に関して深い知識を持つ町さんですが、「ジャーナリスト」ではなく「アナウンサー」として活動をするのは、メッセージの届け方が違うからだそうです。

「私は職業柄、自分の経験や思いを発信することが出来ていますが、介護に直面している人たちの多くは、悩みを独りで抱え込んでいるのではないかと思います。そういう声を届けたい。実はアナウンサーという肩書きにこだわるのは、そこが理由なのです。ジャーナリストが問題を追求して社会に問いを投げかけるのに対し、アナウンサーは言葉にこだわって伝えることを大切にしています。その人に寄り添って、一緒に考えていきたいという思いがあるんです」

「元祖ヤングケアラー」として体験を語ることが求められる一方で、活動の核は「今、伝えられていない人たち」の声に耳を傾け、それを届けること。アナウンサーとしての町さんは、ケアラーと社会を結びつける「架け橋」となっています。

「私がヤングケアラーになったのは三十数年前ですが、今もヤングケアラーが抱える複雑な思いは自分の頃と変わらないと感じています。社会がヤングケアラーの存在に目を向けるようになったとは言え、彼らが周りに悩みを相談できているか?というと、なかなか出来ていないんですよね。相談しても解決するわけではない、家庭の問題だから自分でなんとかしなくちゃ、と思っている子が多いのです」

書籍『受援力』がなるべく平易な言葉で書かれているのも、アナウンサーとしての「伝えたい」姿勢の表れなのかもしれません。ヤングケアラーだった当時のご自身や、妹さん、弟さんに「もしこの本があったら助かった」と思ってもらえるようなメッセージなのではないでしょうか。

町亜聖さんと小黒悠さん


6. お話を伺ってみて

筆者も実は20代の頃に母親が脳梗塞で片麻痺になり、苦手だった料理を必死に覚えた経験があります。もっとあの時に「お母さん、教えて」と一緒に料理をしても良かったのではないか、とずっと考えていました。当時は若さゆえの焦りもあったのかもしれません。

誰にも言えずにいた後悔を、今回思いがけず町さんと共有することができて、少し心が軽くなった気がしています。町さんが大切にされているものは、今、私が感じているこの気持ちなのかもしれません。
町さんの活動は、ケアラー自身に寄り添うだけでなく、聞き手や読み手に対しても「一緒に考えたい」という共感と行動を促すことにつながっているのではないかと感じました。



写真(トップ):町さんより



●町亞聖(まち・あせい)

小学生の頃からアナウンサーに憧れ、1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者としてがん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題などを取材。“生涯現役アナウンサー”でいるために2011年にフリーに転身。脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた著書『十年介護』(小学館文庫)、全てのケアラーのための“読むピアサポート”新刊「受援力」(法研)を出版。医療と介護を生涯のテーマに取材、啓発活動を続ける。念願だった東京2020パラリンピックを取材。元ヤングケアラー。


町亜聖




この著者の以前の記事
「何事もなかったかのように介護したい」| 介護作家、工藤広伸さんに聞く

この記事の提供元
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著者:小黒悠(おぐろ・ゆう)

ケアする本屋「はるから書店」店主。20代後半に始まった介護経験を活かして、介護に「やくだつ」本と、気持ちの「やわらぐ本」をセレクトしています。元図書館司書。古い建物と喫茶店がすき。平日は会社員、ときどきライター。
・はるから書店公式HP https://harukara-reading.stores.jp/
・はるから書店・小黒悠note https://note.com/harukara/
 

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