介護のステージは、最終章の要介護5へ。母は娘の名前もわからなくなり、脊柱圧迫骨折をきっかけに車いす生活となりました。介護ベッドの導入、住宅改修、繰り返す誤嚥性肺炎。そして在宅介護に区切りをつけて下した療養型病院への入院という、人生でいちばん重い決断。荒れ狂っていた感情が看取りまでの8ヶ月間で、静かな「受容」に変わっていきました。

やがて介護のステージは、最終章である「要介護5」へと至りました。一般的に要介護5といえば「寝たきり」のイメージが強いと思われますが、母の場合、認定された直後もまだ奇跡的に自分の足で歩くことができていました。認知症の進行を遅らせるためにアリセプトという薬を何年も熱心に飲み続けていましたが、ついに母は家族のことすら忘れてしまう末期の段階へと入っていったのです。
自分の娘の名前もわからない母。それはあまりにも寂しい現実でしたが、そんな過酷な状況の中で、一つだけ救いのように感じられたことがありました。それは、母が若くして亡くなった私の兄の存在を、その深い悲しみの記憶ごと忘れてくれたことでした。兄が先立ったとき、母は身を引き裂かれるような思いで涙を流し、その後の人生もずっとその大きな傷を胸に抱えて生きてきました。母を狂わせた認知症という病が、同時に母を人生最大の生き地獄のような悲しみから解放してくれたのかもしれません。「あの耐え難い事実も、母の頭の中からすっぽりと抜け落ちてくれたのなら、それはせめてもの救いだったのではないか」と、私は自分に言い聞かせるように感じていました。

そんな母がいよいよ自立歩行が困難となり、寝返りすら自分では打てなくなっていく決定的なきっかけとなったのが脊柱圧迫骨折でした。
この骨折を境に、母は完全に車いすでの生活を余儀なくされました。それまでは、少しでも「本人が自由に体を動かせるように、自分で寝返りが打てるように」と考え、あえて布団で寝かせていたのですが、歩けなくなった母を布団から車いすへと移乗させる介助は、想像を絶する重労働でした。力任せの介助を毎日続けるうちに、今度は私自身のひざが悲鳴を上げ、激痛で立っているのも辛い状態になってしまったのです。
「もう、私の体も限界だ……」
ついに私は介護ベッドをレンタルすることを決断しました。同時に、車いすの移動をスムーズにし、少しでも介助の負担を減らすため、介護保険の住宅改修制度を利用して、母が過ごす畳の部屋をフローリングへとリフォームしました。部屋の景色が変わり、近代的な介護ベッドが導入されたわが家は、もはや一つの「療養の場」へと姿を変えていました。

しかし、環境を整えたのも束の間、身体機能が極限まで落ちた母の体に、次なる試練が襲いかかります。飲み込みの力が弱まったことで、誤嚥性肺炎を起こすようになり、短期間での入退院を何度も繰り返すようになったのです。高熱を出して息を荒くする母を前に、次はいつ急変するかわからないという恐怖が常に付きまといます。これまでわが家を支え続けてくれた介護保険の枠組み、そして小規模多機能型居宅介護の温かいスタッフの方々のケアをもってしても、もはや医療的な限界が近づいていることは明白でした。
幾度目かの入院の際、私は人生でいちばん重い決断を下すことになりました。それは、福祉による在宅介護に区切りをつけ、24時間体制で医師や看護師の管理を受けられる「療養型病院(医療保険適用)」に母を入院させることでした。
この決断は、すなわち母との同居生活の終わりを意味していました。

入院が決まったとき、私の中の在宅介護は一つの区切りを迎えました。それは同時に、母の「看取り」を覚悟する段階に入ったということでもありました。もう自宅へ連れて帰ることはできない。ここが母の最期の場所になる。そう心に決めてからは、私の新しい日常が始まりました。正社員としての仕事を終え、毎日のように病院へ足を運び、母の病床へと向かう生活です。
ベッドの上の母には、こちらの言葉が届いているのかどうかもわかりません。それでも私は毎日、母の傍らに座り、その細くなった手を握りながら、ただひたすらに声をかけ続けました。
振り返れば、その時の私は、本当に激しい感情の嵐の中にいました。
自分の中には波のように交互に悪魔と天使が混在していたかもしれません。
最初は、「とまどい」があり、理不尽に暴れる母に対して抑えきれない「怒り」をぶつけ、手を上げてしまい自己嫌悪に陥りました。そして、どれだけ手を尽くしてもよくはならないという絶望からの「諦め」。しかし、療養型病院のベッドサイドで、ただ静かに呼吸を繰り返す母の姿を毎日見つめているうちに、私の中の荒れ狂っていた感情は、不思議なほど穏やかな「受容」へと変わっていったのです。
それは何というか、介護の義務や日々のお世話に追われていたときには見えなくなっていた、私の中の「大好きだった母親への感情」があふれ出してきた瞬間でした。怒りも憎しみも消え去り、ただ、私を生んで育ててくれたこの人が愛おしい。その純粋な気持ちだけが、私の心を満たしていきました。
病院に移ってから8ヶ月後、母は静かに息を引き取りました。
母が旅立ってから時間が流れた今でも、私は母の写真を携帯電話の待ち受け画面にしています。そこに写る母は、認知症の末期特有の、まるですべてのこだわりから解き放たれたかのような、子どものように無垢で穏やかな笑顔を浮かべています。
あの壮絶だった日々、血を流した転倒、激しい言い争い、そして手を上げてしまったあの夜の涙。そのすべての苦しみの果てに、母が最後に残してくれたその笑顔の写真は、今も私の心を救い続けています。私はその温かい微笑みに毎日守られながら、母から受け取った命を抱きしめて、これからも前を向いて生きていきます。
写真:PIXTA
著者:渋澤和世(しぶさわ・かずよ)
在宅介護エキスパート協会代表
会社員として働きながら親の介護を10年以上経験し、社会福祉士、精神保健福祉士、宅地建物取引士、ファイナンシャルプランナーなどの資格を取得。自治体の介護サービス相談員も務め、多くのメディアで執筆。著書『親が倒れたら、まず読む本 入院・介護・認知症…』(プレジデント社)、監修『親と私の老後とお金完全読本』(宝島社)などがある。
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