距離感の取り方が難しい母と娘の関係性について考える連載。美しく、頭脳明晰な母親を尊敬していた娘ですが、一方で完璧すぎる母親ゆえ、母親に意見することを諦めるようになっていました。そのことが母親の最期に大きな影響を及ぼしてしまいます。
「すごくキレイなお母さんがいる!」と小学校の授業参観でクラスメイトがざわつくほど美しく、おしゃれだったというSさんの母親。それもそのはず、若いころはアパレルのパンフレットのモデルをしていたといいます。
さらに、塾の講師を長いこと務めるなど、夫を黙らせてしまうほどの分析力と論理的思考が可能な頭脳明晰さも併せもっていました。そのため、子どものころのSさんの母親に対するイメージは“完璧過ぎる母親”でした。
“完璧過ぎる母親”はどんなに疲れていても家事に手を抜くことはなく、庭掃除をするときでさえ、化粧をして身支度を整えていました。正直、どんなときでも完璧を目指す母親の生き方を息苦しく思いこともあったというSさんがそれに対して反論しても、母親に理路整然と論破されてしまいました。そのことに虚しさを感じたというSさんは、大人になるにつれ、「親子でも分かり合えないことがある」と自分の意見や価値観を母親にわかってもらうことを諦めるようになりました。
とはいえ、考え方の大半は幼いころから尊敬していた母親に似ており、基本的には母親の言っていることは正しい、と思っていたSさん。この連載では、関係が上手くいっていない母娘の話が多かったのですが、Sさんの場合、思うところもあれど、母親をリスペクトしており、理想的な母娘といえるのかもしれません。
自らの健康を顧みず、暴飲暴食で透析生活を送ることになった父親とは異なり、何事においても完璧な母親は自身の健康にも気を付けていました。そのため、母親は老衰で亡くなった祖母(母親の母親)と同じような最期を迎えるのだろうと考えていました。さらに、自身の両親を長きに渡る介護の末に見送った母親は、子どもたちには同じ思いをさせたくないと、延命治療や身内による介護は望まないなど、もしものときに備えた話を常々、子どもたちにしていました。子どもたちは「お母さんはあんなことを言っているけれど、そんなのまだ先だよね」という感じで聞き流していたそうです。
そんな母親に、昨年の夏に変化が訪れました。数年前から耳の聞こえが悪くなってきたため、大事な場では集音器を使用していた母親。その聞こえが悪いことを気にしていので、Sさんはきちんと耳鼻科の受診をし、補聴器を作ることを勧めます。耳鼻科で色々な検査をした結果、年齢を考えたら正常範囲とは言われましたが、その検査後に異変が表れました。
検査から2日後、母親が「めまいがして朝から起き上がれない」と言うのです。変だとは思いましたが、「ガーガーする機器で耳の検査をしたから、それが響いてめまいがするのだと思う」と言い、最初はSさんもそうなのかもしれないと思っていました。しかし、その翌日も起き上がれないのを見て「めまいが起きる検査なんておかしい。耳鼻科でその話をしたほうがいい」と再診を促します。ところが、その翌日にめまいは治ってしまいます。さらにいつも正論を言う母親の「やっぱり歳は取っているから何かしらあるね。治って良かった」という言葉を信じてしまいました。
なぜなら、完璧な母親はかかりつけ医のもとで血液検査を定期的に行なっていました。検査結果は毎回オールA。健康に全く問題がないと言われていたのです。めまいから3週間後に定期検査を行っていたのですが、医師に体調変化の話はしていなかったようなのです。
その4日後、母親が脳幹梗塞により自宅で倒れ、救急搬送された病院で2日後に帰らぬ人となってしまうとは誰も思いもしませんでした。
その日、父親は腎臓病の治療で入院しており、母親は一人で実家にいました。近くに住んでいるSさんは犬の散歩のついでに夫の出張土産を届けに実家を訪れました。インターホンを何度鳴らしても母親は出てきません。変な胸騒ぎがして、娘と夫を呼び出したところ、夫が「家の中で倒れていたりしないよね?」と言ったため、勝手口から台所を覗くと、台所の電気は点いたまま。台所の床に視線を移すと、そこに母親が倒れていたのです。急いで母親のもとに駆け寄ると、目は半開きの状態で嘔吐した様子が伺えます。呼びかけても応答はありません。救急車を呼び、母親は病院へ運ばれました。
病院では医師から、「倒れてから発見に時間が掛かったので、48時間以内に回復が見込まれなければ厳しい」と言われました。
Sさんが母親を発見したのは午後1時半でした。母親はすべての家事を終えてから朝食を食べるというルーティンにより、いつも午前9時半ごろに朝食をとります。食べかけの朝食が机の上に残ったままだったということは、母親は4時間以上も前に倒れたということになるのです。「なんとしても助かって欲しい」というSさんたちの願いも虚しく、倒れてから2日後、最期の最期に声を掛けた孫(Sさんの娘)の声に一瞬、目を開いたあと、母親は天国に旅立ってしまいました。
母親は自分に何かあったときはできるだけ家族に迷惑を掛けない方法を取るようにと言い続けていましたが、尊敬していた母親をSさんは娘としてできる限り、納得いく形でサポートし、見送ろうと考えていたそうです。それなのに母親は突然、Sさんの心の準備も追いつかぬ間に逝ってしまいました。著者もそうですが、いずれ訪れるであろう母親の介護を覚悟していても、それが叶わない娘がいます。また、介護ができることがよいかどうかは非常に難しい問題です。しかし、両方を経験している著者としては、どちらの経験も、娘のその後の人生を大きく変えるような出来事だと思っています。
Sさんには母親に対する後悔ばかりが残りました。「1ヶ月前、耳鼻科を再診することになったとき、もっと違う原因を考えられなかったのか」「なぜあのとき、母親の『治って良かった』を信じてしまったのだろうか」「母親はいつも正論を言うと信じて、反論できなかった自分が情けない」……。しばらくは、「あのとき、ああしていれば…」「あのとき、こうしていたら…」と母親のことしか考えられない日々が続いたそうです。
そんなSさんを救ってくれたのは、母親のかかりつけ医でした。倒れる4日前に行った血液検査の結果を、その1週間後に聞きに行く予約を入れていたのです。Sさんはいまさらと躊躇しつつも結果を聞きにいくと、かかりつけ医は後悔ばかりしているSさんに向かってこう話したのです。
「検査結果を見る限り、今回だけコレステロール値が高かった。恐らく、お母さんの脳梗塞は首の一番太い血管が詰まったもので、誰にも防ぐことはできなかったんだよ。予防も難しかった」
なぜか、かかりつけ医のこの言葉に心が軽くなったというSさん。もし、あの状態で助かったとしても、救急車で運ばれた病院の医師からは寝たきりになるだろうと言われていました。それは母親が望むかたちの生き方ではありません。「自分が思っていた最期とはかなり違うかもしれないけれど、母親は誰の世話にもならず、逝くことを自分で決めたのかもしれない」と思うようにして、少しずつ前を向けるようになってきたそうです。
前向きになり始めとはいえ、あの日から母親のことを思い出さない日は1日もないといいます。どんな対応をしていたとしても「ああいう結果にしかならなかった」と、自分で自分を納得させるしかないと考えているそうです。あのとき、ああしていれば…、こうしていたら……と考えても、不可能なことばかりだったと。
親などと突然の別れを迎えると、残された人たちはどうしても思い悩んでしまいます。それでも、亡くなった人の思いをどう捉えて納得し、自分の気持ちに折り合いを付けていくかは、生き続ける自分がずっと考え続けていかなくてはならないと、まるで母親に問いかけるように天を仰ぎながら、Sさんは語ってくれました。
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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