母と娘の関係性とその介護について考える連載。父親と母親の介護と看取りを経験し、同じように、つらく、大変な思いをしている娘たちを支える側になった娘にお話を伺いました。
野村まどかさん(40代、NPO法人勤務)は、自らの介護経験を物語にしたならば、6つの章に分けることができる、と語ります。第1章は、父親ががんになりダブルケア(*1)の始まり。第2章、第3章は母親の脳梗塞とがんの発覚。第4章は、再び脳梗塞で倒れた母親の介護度が要介護5となったこと。第5章は認知症を発症した父親の要介護4の認定。そして第6章は、両親が終末期を迎えたことへと至ります。
第1章から第6章は、12年の間に起きた出来事です。どれも家族にとって一大事ともいえる出来事ですが、第1章から第3章までは、まだ両親に”回復する”という希望があり、野村さんは「そんなにつらくはなかった」のだそうです。
しかし、第4章以降は状況が大きく変化します。
野村さんが最も絶望したのは第4章、母親が再び脳梗塞で倒れ、要介護5になったときでした。母親は寝たきりとなり、これ以上の回復が期待できないどころか、日常的に医療的なケアを受けなければ、生きられなくなってしまったのです。さらに、栄養補給のための食道ろうの設置など、母親にとっての命の選択ともいえる決断を次々に迫られる日々は、野村さんにとって大きな精神的負担になったのです。父親と話し合うことはできましたが、このころの父親は母親が倒れたショックで、野村さんのサポートが必要になるくらい憔悴していました。また、兄や姉は遠方に住んでいるため、実家の近くに住んでいた野村さんが母親の介護を担うキーパーソンにならざるを得なかったのです。
*1 ダブルケア…主に介護と育児など、複数のケアを同時に行うこと
野村さんは嫁いでも両親の近くに住んでいたため、母親との距離感は、きょうだいの中では物理的にも気持ち的にも近いものがありました。また、野村さんはそもそも幼いころから母親のことが大好きでした。そんな母親が要介護5の寝たきりとなった現実を目の前にして、母親の娘としての第一幕が終わったこと、そして母親の命の終焉まで、これまでの感謝の気持ちを行為として返してゆく第二幕が始まったのだと感じたそうです。このとき、自分と母親との関係が線引きをされたように変わったことも感じたそうです。母親を支える自分の気持ちをそんなふうに鼓舞しなければ、心身ともに崩れ落ちてしまいそうな気がしたといいます。
その後、母親は介護医療院へ入院。娘としては、母親を家に帰してあげたいとは思ったのですが、母親には24時間体制で医療的なケアが必要なため、子育てをしながらそれを叶えることはできません。それなのに、野村さんにいつも「ありがとう」「ごめんね」と言い続ける母親に対し、自分はそんな言葉に値するようなことをしてあげてはいない、と常に負い目を感じていました。
心身ともに多くの負担を抱えるようになった野村さんに、第5章の悲劇が訪れます。じわじわと認知症になっていた父親が庭で転倒し、大腿骨を骨折して入院して要介護4になってしまったのです。どんどん衰弱していく父親のケアのキーパーソンとして、今度は父親についての命の選択ともいえる決断を迫られる日々に突入していったのです。
自分の選択次第で親の生死が決まってしまうという重すぎる責任に、野村さんは苦しみました……。
「あまりにつらい、この状態は何なのだろうか?」と、野村さんは「介護 育児 しんどい」というキーワードでネット検索をすると「ダブルケア」という検索結果が表示されました。このときに初めて「ダブルケア」という言葉を知り、自分が「ダブルケアラー(*2)」と呼ばれる存在だと知り、大きな安堵感を得ます。そして、SNSで自らの日々を発信したり(ダブルケアラーだった野村さんが当時、唯一本当の気持ちを吐き出せた場所がTwitter〔X〕だったそうです。アイコンは息子さんの絵で、アカウント名は「ケアをがんばるすべての人に”はなまる”を」と想いを込めました)、ダブルケアラーを支援する人たちと積極的に繋がることで、同じような立場の仲間の輪が広がり、助けられることが増えていきました。

*2 ダブルケアラー…ダブルケアをする人
第6章に突入すると、父親は母親より先に天国に旅立ってしまいました。父親と会うことだけが唯一の生きる希望だった母親にとって、父親の死は大きなショックになることがわかっていました。きょうだい間で意見はわかれたものの、野村さんは母親に父親の死を伝えない選択をしました。面会にいくたび、「お父さんは治療頑張っているよ」と大きな「嘘」をついている罪悪感に押しつぶされそうになりながら、心を無にするしかなかったといいます。
それから2年が経ち、母親が最期を迎えたとき、野村さんは「お母さん、天国にいってもお父さんがいるから寂しくないよ」と耳元で伝えました。その事実を聞いた母親は、息も絶え絶えながらも、ぴくっと反応を示したあと、天国に旅立ったそうです。
あのときの発言は野村さんにとって、母親に真実を隠し続けた贖罪の気持ちが表れたものだったのかもしれない、と複雑な胸のうちを吐露してくれました。
「子育ても介護も、逃げられない。逃げる選択をしない自分がいることもわかっていた。けれど、どこかで全てから逃げ出したい自分もいた」と、野村さんは客観的に当時を振り返ります。
野村さんの介護物語は第6章で終わりを迎えたわけではありません。親の介護を経験した人の多くが経験するエピローグなのかもしれませんが、母親を失ったあとの野村さんは大きな喪失感や後悔などから心身のバランスを崩してしまいました。
「自分にはもう、帰る実家がない」ということや、母親と出かけている娘を見ると、もうそれができないのだということを痛感し、深い悲しみが襲ってくるのです。
それでも仲間たちの支えにより徐々に元気になっていった野村さんは、新しい物語を歩み始めます。野村さんが探した限りでは、地元の山口県にはなかったダブルケアラーを支援する団体として、「ダブルケア山口」を自ら立ち上げたのです。そこでは「ダブルケアカフェ」という名で、同じような経験をした人たちが語り合うピアサポートの場を作るなどの活動をしています。
野村さんの娘と息子の二人の子どもたちは、祖父母の介護に奔走する母親の姿を見て育ちました。特に幼いころから介護に疲弊する母親を助けたいという思いが強かった娘は、将来、野村さんに介護が必要になったときに、自分の人生を犠牲にしてでも母親のことを介護する姿が想像できるのだそうです。そんな娘に対して野村さんは、「親の介護を背負わず、自分の人生を生きてほしい」ということを母親として伝えていきたいと思っています。
自分が親の命の選択に繋がる決断に苦しんだことなどから、元気なうちから自分がどんな生き方をして、どうやって死んでいきたいかなどを家族と話し合ったり、意思表明をする「ACP(人生会議)」の大切さも発信しています。
今は「ダブルケア山口」の代表として、介護をする娘たちを支える立場となった野村さん。そこに辿りつくまで、つらく、大変なこともたくさんあったとしつつ、「お父さん、お母さん、私はダブルケアを経験してたくさんのことを得ることができたよ。いつか会えたら、一緒に乾杯しよう!」と、天国に向かって胸を張ることができると笑顔を見せてくれました。
※野村さんが代表を務める「ダブルケア山口」の詳細はこちら↓
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・母親世代に聞く理想の介護と娘への思い|娘はつらいよ!?㉔
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・「仕方ないよね……」と諦めた妹の一人介護|娘はつらいよ!?㉒
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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