母と娘の関係性と介護について考える連載。愛人がいたうえに、家族にはモラハラをしていた父親から逃れるため、子どもたちを連れて家を出た母親は、娘のひと言で家に戻りました。そのことから罪の意識を持ち続ける娘が母親を介護して……。
今回、話を聞いたMさん(40代・会社員)の 飲食店を営んでいた両親はMさんが子どものころから、それぞれにお店を持ち、忙しく働いていたそうです。父親は週の半分は店に泊まり、残りの半分に家へ戻ってくるという日々を過ごしていました 。しかしそれは表向きの話で、店に泊まると言いながら、母親とは別の愛する人のところで過ごしていたということを知ったのはMさんが20歳を過ぎてからでした。
Mさんの母親は、愛人の存在に加え、モラハラをすることもあったという父親のもとから、Mさんと兄を連れて決死の覚悟で家を出ました。ところが、幼かったMさんが「おうちに帰りたい」とつぶやいたことで母親は仕方なく家に戻ったのです。この一件により、母親と兄に対する父親のモラハラがよりいっそう激しくなりました。そして、母親は以前に増して、仕事に没頭するようになっていきました。
大人になって父親に愛人がいることを知り、なぜ、あのとき母親が家を出たのかをMさんは理解しました。同時に父親のことが憎くて仕方がなくなったといいます。また、そんな父親がいる家に自分のせいで戻ることになった母親に対して、罪悪感を持つようになりました。
Mさんの父親は60歳を過ぎた頃、脳梗塞で倒れました。関係が続いていた愛人は父親を捨て、別の人と結婚してしまったため、母親は仕事をしながら父親の介護を担うことになったのです。本来ならば、Mさんや兄も父親の介護の手助けをするべきだったのかもしれません。しかし、子どもたちの父親に対する気持ちは複雑で、母親に悪いと思いながらも、手伝う気持ちにはならなかったそうです。それから約10年間、母親は父親の介護を続け、父親を看取りました。
一方で、父親の介護をしているころから母親に変化が見られるようになりました。母親の店で働く従業員から「お金の管理ができていない」と相談を受けたのです。店を継がずに会社員として働いていたMさんは、働きながら母親のお店の経理を担当することになりました。そこで初めて、母親の店の経営状態は火の車で、貯金を切り崩しながら営業していたことがわかったのです。
言動が怪しくなった母親をMさんは、折々に物忘れ外来へ連れて行きましたが、はっきりとした診断が出ません。そのうちに、母親がちゃんとお風呂に入っていないことに気が付きます。客商売なのでさすがにそれはまずいと、お風呂に入るよう促しても、言い訳ばかりしてなかなか入ろうとしません。さらに、話しかけても聞こえていないようなことが増えていきました。Mさんは藁にもすがる思いで認知症患者の家族の集いに参加したり、そこで得た情報をもとに病院を渡り歩いたりしました。そして、母親の変化に気が付いて5年が経過したころ、やっと母親に「意味性認知症(※)」という診断が下りたのです。
※意味性認知症…前頭側頭型認知症の一病型。初期症状では言葉や物の意味がわからなくなるという障害が中心となり、進行すると人格の変化や行動障害、語彙の極端な減少や自発性の低下が目立つようになるとされる。
介護保険による介護サービスを利用するようになると、ケアマネジャーから「お客さんとトラブルを起こす前に、お店は閉めた方がいい」との提案を受けました。ただ、母親にとってお店は生きる糧だったため、Mさんはその決断がなかなかできませんでした。それでも介護のプロによる客観的な意見を無視することはできず、お店を畳むことを母親に受け入れてもらいました。その後は閉店に関する処理もMさんが一手に担ったのですが、介護にはこういった親の仕事の後始末も含まれているのだということを実感したそうです。
兄は父親からモラハラを受けていることを知りつつも、自分を助けてくれなかった母親に対して心のしこりがあり、母親の介護にもあまり協力的ではありません。独身のMさんがメインとなり在宅で母親の介護を担いました。どんなに大変になろうとも、その状況を受け入れたのは、子どもたちを連れて家を出る覚悟を決めたのに自分のせいで母親を元の生活に戻してしまったこと、父親の介護を母親に任せきりにしていたことへの罪の意識があったからです。さらに、母親が苦しんでいるときに何もできなかった後悔を繰り返したくない、という思いもありました。
在宅介護を始めて5年が経過したころ、夜のトイレに10分おきに連れていくようにせがまれたり、リハビリパンツを履いてもらうもビリビリにして部屋中にばらまくなどの母親の行動への対応でMさんは不眠に苦しむようになり、このままでは自分が倒れてしまい、いつか母親に手を上げてしまうのではないかという不安を抱えるようになりました。しばらくは「在宅介護をもう少し頑張ろう」と自分を鼓舞したり、「もう限界!」と涙を流すなどの葛藤を繰り返しましたが、母親が安心安全な空間でプロから介護を受けて暮らすことがベストであるという考えにいたり、施設を探し始めました。
紆余曲折を経て、母親はグループホームに入所。Mさんはできる限り母親に会いに行く時間を作ることを心に決めるも、入所時はコロナ禍で窓ガラス越しでの面会しか叶いませんでした。感染症対策で忙しい職員が、毎日やってくる娘のために嫌そうに窓際まで母親を連れてくることもありましたが、Mさんは母親のことが心配で会いに行くことをやめられなかったのです。
母親はさまざまな事情で別の施設に移ったり、体調を崩して入退院を繰り返すなどし、入所して5年ですっかり衰弱してしまいました。
自分と母親にあとどれだけの時間が残っているのかは、誰にもわかりません。しかし、時間が許す限り、Mさんは母親がいる施設に顔を見に行くつもりだといいます。今では仕事が終わったあとに母親の施設を訪れることがすっかり習慣になってしまいました。
それでも最後まで自宅で介護をしてあげられなかったことに心が揺らぐことがあるというMさん。そんなときは、娘としてやってあげられることはやってきたし、その時々で母親にとってベストの選択をしてきた、と自分自身に言い聞かせ、今日も母親のいる施設に足を運びます。
著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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