翻訳家、村井理子さんのエッセイ連載の第2回は、お母様を看取った際のお話。すでに村井さんご自身も家庭をもち、子育てや仕事にも忙しい中、お兄様と同居されていたお母さまの厳しい現状を知らされ、あっという間に看取りを迎えた村井さん。愛情だけではない、複雑な感情が入り混じった家族への思いと辛かったこと、そして今も残る後悔。すべてがリアルに再現された文章をお楽しみください。

1. がん、そして認知症……主治医からの電話で知った母の現状

母の死に関しては、今でも心残りがたくさんある。母の死からあっという間に10年も経過したが、もっとできることがあったのではないか、娘としてやるべきことは山ほどあったはず……と考えることが度々ある。

母が膵臓がんと認知症を発症したと知ったのは、母の主治医からの連絡がきっかけだった。それまで母とは数ヶ月に一度は連絡を取り合って、生活の様子をちゃんと聞いていた。関係性は悪くないと思っていた。電話をしてお互いの近況を報告し合い、笑って、それじゃあまたねと言い合える関係だった。母はいつも通りの母だった。だから、母の異変に一切気づくことができなかった。

当時、離婚したばかりの兄が母と一緒に暮らしており、日頃の生活の支援や通院介助をしていると聞いていたので、すっかり安心していたこともある。双子の息子たちは小学校低学年で、私は育児に、そして仕事に追われていた。私が住む場所と母の住む場所には、新幹線で2時間程度の距離がある。会いに行きたくても、自由に動くことができなかった。私の家に来るように誘っても、母は決まって土壇場になるとキャンセルした。義理の両親は商売に忙しく、育児を頼むことができる状態ではなかった。兄が側にいるなら大丈夫だろうと、都合のいいように解釈して、そう信じようとしていたのかもしれない。

突然、母の主治医から私に電話があり、「お母さんの状態を知っていますか?」と聞かれた。私は正直に、数年は会えていないので、詳しいことはわかりませんと答えた。すると医師は「もうかなり痩せられて、膵臓がんが進行している状態です。そして認知症も発症しています。このままではお母さんが気の毒です。一度、帰省してもらえませんか」と言った。

私は驚いた。兄が側にいるはずだし、通院していることは知っていたけれど、母からそこまで深刻な状態だとは一切聞いていなかった。そのうえ、電話で話している母は、普段と変わらない様子だったのだ。

「あなたのお兄さんとも話をしましたが、彼は私の治療方針に反対のようです。とにかく、すぐにこちらに来て下さい」 
母が経営していた喫茶店の長年の客で、喫茶店の近くでクリニックを開業している医師は、穏やかな声でそう言った。

私はすぐさま実家に戻った。駅まで迎えに来てくれた母は、別人のように痩せ細っていた。事情を聞いても、目の焦点が定まらず、はっきりとした答えを言わない。そもそも何を考えているのか掴みにくい性格の母が、以前に増してわかりにくい。

私は苛ついた。同時に、母と一緒にいたはずの兄が、遠い町に引っ越す準備をしていることを知り、唖然としてしまった。この状態で母を捨て、自分だけ引っ越すというのか。そしたら、母はどうなる? 私は小学生の双子の息子を育てているというのに、一体どうすれば? 自分のことを棚に上げて、兄の引っ越しに腹を立て、どうしたらいいのかと焦るばかりだった。

2. こたつに足を入れ、病身の母と向き合った日の後悔

母の主治医は、そんな私の状況を理解してくれ、様々な提案をしてくれた。とにかく、このまま総合病院でがんの治療を続け、必要になったら入院すること。それまでは、介護認定を受けてデイサービスを利用すること。そして必要な手続きをすべて教えてくれた。

今、義理の両親の介護をしている私は、母の主治医が私に教えていたことの意味がすべて理解できるが、当時、介護認定やデイサービスなどの知識が皆無だった私には、まるで謎解きのような言葉の連続だった。それよりなにより、母が別人のように変わってしまったことが怖くて仕方がなかった。会話のキャッチボールがまったくできなくなっていたのだ。

母と一緒に実家に戻ると、実家はきれいに片づけられていた。寒い時期だったが、認知症の母には危険だという判断で、最低限の暖房器具しかなかった。隙間風の入る母の部屋で、こたつに足を入れて、向き合った。母はぼんやりとした顔で、「ひさしぶりだね」と言った。

私は痩せこけてしまった母の顔を見るのが怖くて、母と目を合わせることができなかった。頭の中では「どうしたらいいのだろう」という言葉がぐるぐるまわっていた。その日、私は実家に泊まらずに、近くのホテルに宿泊した。母には「ごめん、やっぱりホテルに泊まるね」と伝えた。母は「いいよ」とだけ返した。母と一晩一緒に過ごすことが、どうしてもできなかった。その日が最後のチャンスだとは知らなかったから。

3. どうすればよかったか? 今なお続く自身への問い

母がデイサービスに通う日々はそう長くは続かなかった。実家のほど近くに住む叔母(母の妹)と、叔母の娘たち(私のいとこ)が母の世話をしてくれた。今でも申し訳なく思う。

小学生の息子たちを連れて実家に戻ることもできず、わが家に息子たちを置いて私が実家に戻ることもできず、兄は行方をくらまし、私は親戚の優しさに頼るしかなかった。しかしその状況を知った別の親戚から長文の批判メールが届き、私は打ちのめされて、何も手につかなくなった。いろいろな人が、いろいろなことを私に言い、私は混乱した。母のことを思いやることさえできなくなった。

そんな時に、母が入院をした。腹水が溜まり始めたのだ。誰の目から見ても、母の状態が悪いことは明らかだった。

母は入院から程なくして亡くなった。明け方に亡くなったため、私は死に目に会うこともできなかった。兄も同じだ。だから、母は一人で孤独に逝ったということになる。
兄は母の葬儀に東北から戻り、誰よりも母の死を悲しんでいた。私はそんな兄を見て、母の死を何より恐れていたのは、この人なのだろうと思った。だから引っ越したのだろうと思い、母と兄とのそれまでの強い繋がりを考えずにはいられなかった。


村井理子さん家族写真
写真上:幼いころの村井さん(中央手前)とお母さま(右)、お兄さま(後ろ)。


私と母の関係性は、私が大学生となって京都に移り住んでから悪化し、疎遠となった。その原因の一端は兄にもあるし、それ以外のことも関係しているが、今となってはすべて私の幼さゆえのことだったと思っている。私がもっと早い時期に母と和解し、例えば私の住んでいる場所の近くに呼び寄せるとか、何かできたはずなのにと、

母の葬儀後、母の主治医に告白すると「ここに70年以上住み続けていた彼女の人間関係を、人生の最期になって奪うことは、たとえ娘だとしてもできないことですよ」と言われた。その言葉が、今の私の慰めとなっている。

19歳となった双子の息子たちと会話をしていると、母のことを思い出してばかりだ。母も、思春期を迎え、反発ばかりする私に手を焼いていただろう。私が口にする辛辣で強い言葉に傷つき、もしかしたら泣いていたのかもしれない。

今、母が生きていたら聞きたいことがたくさんある。病気ばかりしていた私と、育てにくかった兄を1人で育てながら(父は子育てにあまり協力はしていなかったはずだ)、何を考えていたのか。気難しい父を夫に持ち、どんな気持ちで暮らしていたのか。何が好きだったのか。何が嫌いだったのか。どんな瞬間に幸せを感じていたのか。何を欲しいと思っていたのか。そしてそれを手に入れることはできたのか。


村井理子さん母親
写真上:結婚後、20代のころの村井さんのお母さま。飲食店を始められたころの姿だそう。

私は、母のことをほとんど知らないまま、母と別れてしまった。



写真提供:村井さん

4. このエッセイをより深く味わうために

今回の村井さんのお母さまについての話、そしてお母さまについての話は、下記の書籍で読むことができます。


家族_村井理子書影
実母と義母_村井理子_書影

写真上:家族』村井理子著(亜紀書房 2022年)
写真下:実母と義母』村井理子著(集英社)


村井理子さんのウェブ連載
・村井さんちのこと(新潮社「考える人」内) https://kangaeruhito.jp/articlecat/muraisan
・ある翻訳家の取り憑かれた日常(大和書房「だいわlog.」内) https://daiwa-log.com/magazine/riko_murai/
・実母と義母(集英社「よみタイ」内) https://yomitai.jp/series/jitsubotogibo/




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著者:村井理子(むらい・りこ)

翻訳家/エッセイスト
著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう』(CCCメディアハウス)、『家族』『はやく一人になりたい!』(亜紀書房)、『義父母の介護』『村井さんちの生活』(新潮社)、『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(大和書房)、『実母と義母』(集英社)、『ブッシュ妄言録』(二見文庫)、他。訳書に『ゼロからトースターを作ってみた結果』『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(新潮文庫)、『黄金州の殺人鬼』『ラストコールの殺人鬼』(亜紀書房)、『エデュケーション』(早川書房)、『射精責任』(太田出版)、『未解決殺人クラブ』(大和書房)他。

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