その距離感の難しい母と娘の関係性について考える連載。30代で未亡人となった母親。女手一つで子どもたちを育て上げるも、若年性認知症に。娘は〈呪縛〉といいつつも、約20年間、母親の在宅介護を続けている。
61歳の頃から母親に「あれっ?」と思うことが続くようになったというIさん。そのうちお金の管理ができなくなったり、母親の友人から言動が気になると指摘されるようになりました。病院に連れて行くも、なかなか診断が定まらず、やっと診断が出たのは64歳のとき。「若年性認知症※」のうち、アツルハイマー型認知症だとわかりました。
母親が若年性認知症だとわかったとき、Iさんはまだ30代。それから今日に至るまで、結婚や大病を乗り越えるなど人生のターニングポイントがありながらも約20年間、母親の在宅介護を続けているのです。
Iさんの母親は30代で夫(Iさんの父親)を病気により亡くしました。その後、夫の仕事を引き継ぎ、小学生だったIさんと弟の育児、同居していた夫の父親の世話をしてきました。そこには、いろいろと口出しをする親戚や近所の人に対して、女手一つでやり遂げてやるという意地のようなものがあったそうです。さらにIさんは父親からの遺伝による病気に加えて子どもの頃はぜん息に悩まされ、母親はIさんが体調を崩すたびに寝ずに看病してくれたそうです。
どう考えても大変な状況なのに、その頃の写真を見ると母親はいつも笑顔で写っています。母親が笑顔を保つことができたのは、夫を失った悲しみや自身にのしかかるプレッシャーを追い払うかのように夜な夜な飲み歩き、ストレスを発散していたという背景があるとIさんは考えています。母親は仕事から帰宅するとすべての家事と皆の世話を終え、誰にも迷惑を掛けることもなく飲みに出かけていました。ただ、そのために自分の睡眠時間を削っていたのです。
Iさんは、母親は家を守るというストレスに加え、父親の分まで働いた過労と飲み歩いた代償としての睡眠不足が若年性認知症に至った要因にもなっているのかもしれないと考えています。そして大人になったIさんは、そうしなければメンタルの状態を保つことができなかったのだろうと、当時の母親のことを思いやります。同時に、母親はどんなにつらいことがあっても自らで乗り越える術を知っており、それを成し遂げたことにおいて、人生に後悔はないと信じているそうです。
※若年性認知症…65歳以下で発症する認知症の総称。
母親が若年性認知症だとわかった頃、Iさんは一人暮らしをしており、弟が母親と一緒に実家で暮らしていました。その弟が結婚して実家を出ることになり、母親が一人暮らしをするのは難しいだろうと、Iさんは弟よりひと足先に恋人との結婚を決め、恋人に母親との同居してほしいとお願いしました。恋人の親からは認知症の母親との同居を反対されましたが、なし崩し的にIさん夫婦が母親と同居することになりました。
Iさんの母親は医者も驚くほどゆるやかに認知症が進行しています。個人差はありますがアルツハイマー型認知症の進行は症状が出てから寝たきりとなり、最終的な段階になるまで約8~10年というデータがあります。そんな中、Iさんの母親は発症から20年近く経過しても自ら歩くことができ、最近は会話が噛み合わなくなってきてはいますが、言葉を発することはできます。最初に受けた要介護認定は要介護1の判定でしたが、今も介護度は1つだけ進んだ要介護2です。
近頃は「仏のように穏やかになって、かわいい」と母親のことを言い表すIさん。しかし、同居を始めてから5年間くらいはとにかくつらく、モノ取られ妄想と被害妄想からIさんがいつも責められ、仕事に行けば何十回も電話攻撃で仕事になりませんでした。ご近所に聞こえるほどの大声で母娘ゲンカをしたこともあるそうです。大声を張り上げてIさんを責める母親の顔がなんともいえない恐ろしい顔に豹変したことが今も脳裏に焼き付いています。Iさんが母親に手を出しそうになったときに、夫が止めてくれたことで過ちを犯すことを防げたと、その壮絶な日々を振り返ります。
当時、母親の介護に悩むIさんの周りには同じような状況の人はおらず、分かり合える人を探し求めて家族会へ参加するようになりました。そこで心のうちを吐き出したり、介護に関する情報を得るなど、自分の状況を自分の力で少しずつ変えていったのです。
母親もケアマネジャーからの提案で、ボランティアに行くという体でデイサービスへ通ってもらったところ、その作戦が大成功。毎晩飲み歩くほど人好きで世話焼きの母親は、デイサービスに通うことで落ち着きを取り戻していきました。しばらくすると、なぜか「夜の家が怖い」と怯えるようになり、お気に入りのデイサービスのお泊りデイを自ら申し出て利用するように。それにより、Iさんにも徐々に心に余裕が出来始めます。
夜な夜な飲み歩いていた頃の母親はヒョウ柄やキラキラした服を好み、江戸っ子らしくチャキチャキした性格だったそうです。今はIさんがチョイスしているというナチュラルな色合いの服を着て、ニコニコ微笑む姿が仏のように穏やかです。そんな母親をIさんは心の底からかわいいと思い、周りの人やデイサービスでも人気者です。Iさんの母親の認知症の進行はまるで子どもに退行していくかのようなものだからこそ、母親が元来持っている人を惹きつける性格が出てきているのではないだろうかとIさんは考えているそうです。
子どもがいないIさんですが、夫はIさんが母親に父性で接しているようだと笑います。「彼がいなかったらここまで在宅介護はできなかった」とIさんは夫に感謝をしています。昨年、父親の遺伝による持病が悪化してIさんが大きな手術をすることになったときも、夫はIさんに最大限に協力をしてくれました。約20年間も母親の介護に付き合わせてしまい、Iさんは夫に対して申し訳ないという気持ちを常に持っています。それでも在宅介護を続けているのは、女手一つで自分たちを立派に育ててくれたということや、病弱だった子ども時代に寝ずに看病してくれた母親への恩返しだとIさんは考えています。そして、父親が亡くなったあとに親戚や近所の人から「お母さんは一人で頑張っているよ」「お姉ちゃんがお母さんを支えなくては」と言われて続けてきた呪縛もあるというのです。
一方、自身の持病や無理が利かない年齢が近づいてきて「いつまで在宅で母親の介護ができるだろうか」という不安が過るようになってきたIさん。不安を抱えつつも、「まだ、母親を見放すわけにはいかない」と言い、「(母親が)自分の足で歩けなくなったら施設入所を考えるかも」と、いつか訪れるであろう未来の日々について遠くを見つめながらつぶやきました。
最後に、その距離感ゆえ難しい実母の介護をする娘へのメッセージとして、家族会の先輩が言っていた印象的な言葉を教えてくれました。
「母娘げんかができるのも、今のうちよ」
母親との衝突に日々悩んでいた頃だったので、この言葉を聞いたときは「この人は何を言っているのだろう?」とすぐに理解することができなかったというIさん。でも、あのつらい介護の日々は過ぎ去り、身体的なサポートが増えたことや、時にはイラッとすることはあっても、以前からは想像もできないくらい母親は穏やかになりました。家族会の先輩の言葉を身をもって経験したからこそ、この言葉の深みを当時の自分と同じような状況の人に伝えたいのでしょう。そしてIさんは、今の穏やかな時間もいつかは終わるということも分かっているのです。
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著者:岡崎 杏里
大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
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