距離感の取り方が難しい母と娘の関係性について考える連載。若くして結婚、出産をした母親との親子関係は、年齢の離れたきょうだいの「サザエさんとカツオのような関係」だと自らいい表すOさん。その独特な関係においては、良いことも悪いこともあるようです。

1. 19歳でお見合い、20歳年上の男性と結婚した母親

アニメ『サザエさん』に出てくる母親のフネさんが一般的な理想の母親像だとしたら、Oさんにとって母親はサザエさんのような存在だったといいます。そして、自分は姉とよくケンカをする年の離れた弟のカツオのような存在だったそうです。

Oさんがそう思い続けたのには、母親の年齢が大きく関係しています。複雑な家庭環境で育った母親は実家から早く離れるために、19歳でお見合いをして、20歳年上の男性と結婚。すぐにOさんが生まれました。

しかし、実家に頼ることができず、まわりに知り合いも友達もいない環境で母親は育児ノイローゼになってしまいます。生まれたばかりの娘を捨てにいこうとするなど、妻(Oさんの母親)の異変に気付いた夫(Oさんの父親)は、立ち上げたばかりの事業とやりくりをしながら、Oさんの育児を担いました。当時を振り返るたびに母親は「あなたはお父さんに育ててもらったのよ」と言うそうです。

2年後に弟が生まれますが、そのころには母親も周囲や子育てにも慣れ、母親としての自覚が生まれ、自分なりに育児を頑張っていたそうです。ただ、Oさんが幼稚園に通うようになると、他の母親との違いを感じるようになります。まずは見た目が他のお母さんよりも若い。そして、多くのお母さんたちが自分よりも子どもを優先しているのに、Oさんの母親は、いつでも自分が最優先。ご飯のときも我先に好物を食べて残りを子どもたちに与える、遊びに行っても見守るというよりも一緒になって楽しんでしまう……。その様子は親子というよりも、年の離れた姉と妹、弟のような感じで、父親は3人の子どもを見守るような存在でした。そのためOさんは母親を「お母さん」と呼ぶことに違和感がありましたが、それでも他にどう呼べばよいかわからないため、仕方なく「お母さん」と呼んでいた記憶があるそうです。

2. 50歳でおばあちゃんになった母親との衝突

母親、自分、弟の3きょうだいのような関係で育ったOさん。親として唯一頼ることができた父親は69歳で急逝します。家族はみな、父は家で急に倒れて救急搬送ののち病院で亡くなったと思っていました。しかし、実のところ、父親は以前より肺がんを患っており、病院には行かずギリギリまで仕事をしながら家で過ごしていました。こうして、母親は49歳で未亡人となってしまいました。

まだ若い母親に子どもたちは再婚を勧めますが、母親はそれを受け入れることはありませんでした。父親が亡くなった1年後、Oさんは結婚をして、子どもが生まれます。まだ50歳と若い母親は、孫の育児に積極的に関わろうとします。おばあちゃんというより、まるでOさんの姉のような感覚で自らが動き回ってOさんの子育てに口を出し、Oさんやその夫への不満を口にします。そんな母親にストレスが溜まったOさんと母親は激しく衝突。母親は「二度とあなたたちには関わらない」と、しばらく疎遠になってしまいました。

その後、Oさんは2人目の子どもを出産。1人目の子どものときのこともあり、母親にはそのことを知らせませんでした。しかし、疎遠になってしまった母娘を心配した夫が母親に連絡してしまいます。すでに2人目の子どもが生まれてから半年以上が過ぎていましたが、夫の説得もあり、母親に会いに行くことになりました。

Oさんが母親に2人の子どもを会わせたくないのには、もう1つ理由がありました。母親の生まれ育った地域では、なんでも長男を優先する傾向があり、女の子であったOさんが母親の実家に行ったときに、弟ばかり優遇されることが嫌だったという思い出がありました。母親にも同じような考え方があり、Oさんの子どもは1人目が男の子、2人目が女の子だったため、自分の子どもに対しても、そういった対応をされることを心配していたのです。

案の定、孫たちに会った母親は長男ばかりを贔屓して、泣いてばかりいる長女に対して「憎たらしい」と言い放ったのです。これを聞いたOさんは「もう二度と、自分から母親との距離をつめることはしない」と心に誓ったのです。

3. 母親が若いからこそ、今後のことをじっくり話し合えた

再び疎遠となったOさんと母親。しかし、長女が幼稚園に入園したころ、「おばあちゃんに会いたい」と言い出しました。子どもの思いも大切にしたかったOさんは、子どもたちが会いたいと言ったときだけ会いにいくなど、ほどよい距離感を保ちながら母親と付き合っていくことにしました。


上手く距離を保ちながら母親と付き合っていたOさんですが、昨年、母親から「下血がひどいから救急車を呼んだ」と連絡が入ります。救急搬送された母親のもとへ急ぐと、下血の原因は大腸ポリープでした。さらに入院中の検査で母親に乳がんが見つかり、手術をすることになりました。若いと思い続けていた母親も、今は70歳。Oさんは、母親とは距離を取ってうまくやってきたつもりでいましたが、病気を患った母親との関係性を改めて考えなくてはいけない時期になったと感じたそうです。

そこで、母親と今後について話し合うことにしました。父親が急逝したときに、家族それぞれに後悔があったというOさん。父親のときのような後悔はしなくないと、今年のお正月に家族で話し合いをしたそうです。人好きの母親は地域で民生委員をしており、さまざまな家族や介護のかたちを見ていました。それが良い方向に作用して、話し合いには積極的に参加してくれたそうです。

延命のこと、認知症や介護が必要になったときの対応のこと、財産のことなどについて話を進めていったというOさん。延命については、しない。認知症や介護が必要になったときは、介護サービスを利用してできる限り自宅で過ごして、1人で生活できなくなったら施設に入所する。財産は住んでいる家しかないので、それを売って施設代にする。それでも財産が残ったときは子どもたちで分ける。

親子の年齢が近いからこそ、母親には高齢者になったという自覚がなく、認知症や介護が必要になったときのことが一番の気がかりだったというOさん。この話し合いにより母親の思いを知ることができ、「母親がそうしたいのであれば、どこまで叶えられるかわからないけれど、できる限りサポートするつもりでいよう」という心構えができたそうです。

これまで、きょうだい感覚の親子関係が腑に落ちないと感じたこともありましたが、親というよりは姉のような感じでまだ認知症の心配もない母親だからこそ、突っ込んだところまで話ができた、今では母親が若かったからこそ話し合いがよりスムーズにできたのではないかと考えています。もし、父親が生きていたら90歳。そんな高齢な父親とはこんな話をすることは難しかっただろうと感じたそうです。

今年のお正月に話し合ったことは、今後それぞれに考え方が変わってしまうかもしれません。そうだとしても、母親に万が一のことがあったときに「母親はどうしたかったのか?」という迷いや後悔は少なくなるはずと確信しているそうです。これまで独特な母娘関係で嫌な思いをしたことがあっても、フラットに介護や最期について話し合えたOさんをうらやましく思う人も多いはずです。

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著者:岡崎 杏里

大学卒業後、編集プロダクション、出版社に勤務。23歳のときに若年性認知症になった父親の介護と、その3年後に卵巣がんになった母親の看病をひとり娘として背負うことに。宣伝会議主催の「編集・ライター講座」の卒業制作(父親の介護に関わる人々へのインタビューなど)が優秀賞を受賞。『笑う介護。』の出版を機に、2007年より介護ライター&介護エッセイストとして、介護に関する記事やエッセイの執筆などを行っている。著書に『みんなの認知症』(ともに、成美堂出版)、『わんこも介護』(朝日新聞出版)などがある。2013年に長男を出産し、ダブルケアラー(介護と育児など複数のケアをする人)となった。訪問介護員2級養成研修課程修了(ホームヘルパー2級)
https://anriokazaki.net/

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