介護やケアにまつわる本の著者にお話を伺う連載、第5回目のゲストは芸人・漫画家として活躍する矢部太郎さん。認知症をテーマに温かく描いた『マンガ ぼけ日和』のほか、近年は個人出版社「たろう社」を立ち上げ、絵本作家であるお父さまの育児日記を編んだ『光子ノート』や大人向けの紙芝居も制作しています。出版社立ち上げの背景や制作への思い、そして大ヒットとなった『大家さんと僕』から一貫する他者への優しい眼差しの源泉について伺いました。

1. 50年前のノートを「本」として残す意味——「たろう社」の立ち上げ

矢部さんは数年前、絵本作家の父・やべみつのりさんが書いた38冊のノートに出合いました。それは矢部さんの姉である光子さんの成長を記録した絵日記でした。
 
「父が書いていたものは、今で言うSNSの育児記録に似ているようでいて、発表を前提にしていないところが大きく違っていました。

SNSはいろんな人に広がりながらも、速いスピードでどんどん流れていってしまいますが、父のノートは、子どもに向き合っていた時間がそのままそこに記録されて残っているような感じがしたんです。

父の主観は入っていなくて、当時の姉の行動や言ったことがそのまま描かれています。すごい量ではあるのですが、その連続性も含めて、いいなと思いました」
  
お父さまのノートを、体裁もボリュームもなるべくそのままの形で本にしたいと考えた矢部さんでしたが、出版社に持ち込んだものの「前例がない、類書がない」と断られてしまいます。

「でも前例がないなら、自分が自分で出す意味がある、と思ったんです」

一念発起した矢部さんは出版社「たろう社」を立ち上げ、ご縁のあったブックデザイナーの名久井直子さんに相談。印刷会社の八紘美術さんとの試行錯誤や、ノートを1ページ1ページスキャンする地道な作業を経て、992ページの本『光子ノート』を完成させました。


光子ノート
光子ノート』やべみつのり著(たろう社) 写真:たろう社公式HPより



「制作は姉も手伝ってくれました。実は経理も担当してくれているんです。姉にとっては自分の子どもの頃のことが描かれているわけですが、昔のことなのでもちろん覚えていないこともあり、『光子ノート』を新鮮な気持ちで受け止めているようです」

矢部さんやお姉さんが実際にブースに立って販売をした「文学フリマ東京」では、初めてこの本を目にした人々が「なんだこれは!」とその圧倒的な厚みに驚いていたと言います。  

「皆さんの反応がとても面白かったです。知らない子どものお父さんの記録だけれど、厚みや重さにびっくりしながらも、本の重みを、人が生きていることの尊さとして感じながら受け取ってもらえたようで、とてもうれしかったですね」



矢部太郎さんツイート
『光子ノート』ができる過程が綴られた矢部さんのX(2025年11月30日)

 

2. 枕元やテーブルで。対面で読まれる「紙芝居」のぬくもり

矢部さんが立ち上げた「たろう社」では、書籍だけでなく「ちいさい紙芝居」の制作も手がけています。かつて、詩人の谷川俊太郎さんが脚本を書き、父・やべみつのりさんが絵を担当した紙芝居『かわださん』が絶版になっていたものを、小さなサイズにして復刊させました。  

「これは大人のための紙芝居で、だんだん言葉がつみあがっていく『つみあげ話』なんです。紙芝居は高齢の方にとっても馴染みのあるものだから、デイサービスなどでも活用していただいています」


紙芝居『かわださん』

かわださん』脚本:谷川俊太郎、絵:やべみつのり、監修:遠山昭男(たろう社) 写真:たろう社公式HPより

 

「紙芝居って、対面じゃないとできないメディアなんですよね。今の時代だからこそ、その意味もあるのかなと。小さなサイズなので、机や枕元でもできるんですよ」

うれしい反響もありました。

​「あるご家族から、デイサービスから帰ってきた親御さんがずっと不思議な言葉を暗唱されていて、最初『何の歌だろう?』と分からなかったそうなんですね。けれど、たろう社の紙芝居を見つけた時に『母が言っていたのはこれのことだったんだ!』と分かって、うれしかったと話してくれました」

人と人、そして家族の記憶をもう一度つなぎ直す。そんなご縁が、矢部さんの創作活動の大きな手応えとなっているようです。

3. 『マンガ ぼけ日和』がもたらす、認知症への新しい景色

矢部さんは、​認知症の専門医・長谷川嘉哉先生の原案をもとに、認知症の症状を説明しながらも、あたたかく笑顔になれるような『マンガ ぼけ日和』を描かれています。矢部さんご自身は、認知症に対してどんなイメージを持ってこの作品を描かれたのでしょうか。

「先生の本を読んで、原因のほとんどは老化であり、人が老いて亡くなっていくという、ごく当たり前な日常の中にあることなんだと、自分事として捉えられるようになりました。実は、このマンガの登場人物には、みんな名前をつけていないんですよ」

矢部さんのお母さまが特別養護老人ホームで介護の仕事をされていたという背景もあり、もともと認知症について「学んでみたい」という気持ちがあったのだそう。最初に先生のご著書『ボケ日和』で挿画の依頼が来た際は、お母さまから「いい本になると思う」と背中を押されたそうです。  


ぼけ日和
ぼけ日和』矢部太郎著、長谷川嘉哉原案(かんき出版)



「実用書のジャンルだと、マンガとして描かれていても、途中に専門的な解説やコラムが入っていることが多いと思います。でもせっかく僕に内容を任せてもらえたので、マンガとしてのリーダビリティというか、最後までマンガとして読めることを大切にしました」

ストーリーは春夏秋冬の4つのパートに分けられ、認知症の症状がどんな風に変化していくのか、そこにはどんな理由があり、どんなサポートがあると助かるのかが描かれています。

「専門知識が得られる本は他にもたくさんありますが、この本はまず最初に手に取って、読んで気持ちが軽くなる本でありたいと思って作りました」
 
​作中では、認知症によって何度も同じことを忘れてしまう登場人物に対し、周りの人が笑顔で教えてあげるシーンが描かれています。現実ではつい、頭では分かっているはずでもイライラしてしまうもの。ですが、矢部さんの絵柄の柔らかさや、ふっと息を抜けるような描写が、心を軽くしてくれます。

「この本で、最近すごくうれしい出来事があったんです。サイン会に来てくださったあるご家族が、全ページに色を塗って、カラー版の『ぼけ日和』にしてくださったものを持ってきてくれたんです。『頭の体操になるから』と言って、今度は『光子ノート』も塗り絵すると言ってくれました。とてもうれしかったです」

あたたかみに溢れる矢部さんの作品が、読者の手によって、新たなケアへと形を変えていました。それは、本という形のあるものだからこそ生まれた出会いだったのではないでしょうか。

4. 『大家さんと僕』から続く、自分の世界を広げてくれる「他者への興味」

年の離れた大家さんとの日々を描いた『大家さんと僕』の発売からまもなく10年。

異なる世代や、自分とは違う背景を持つ人と接するとき、矢部さんが大切にしているのは「相手に興味を持つこと」だと言います。

​「それまでの自分は、お笑いの世界でほぼ同世代の男性ばかりと接していました。生きていると、だんだん狭いところで完成してきてしまうところがあると思うんです。

例えばスマホみたいに、自分の欲しい情報だけ目にしていても十分楽しいし、その中で生きていくこともできますよね。

でも大家さんと出会ったことで、それまで自分が見てこなかったようなこと、例えば大家さんが大切にされている季節の楽しみ方に触れたり、自分1人では出会えない世界を知ることができました。

自分より上の世代の方たちの生き方に接したことで、僕自身の人生の先の見通しも、なんだか明るくなったような感じがします」
  
​かつて、幼い我が子(お姉さま)をじっと観察して38冊のノートを書きつづっていたお父さま。世代や関係性を越えて他者を知ろうとする、関心を持つという姿勢が、今の矢部さんのまなざしと重なります。

「年月が経った今、父がサイン会などをするときは姉が付き添い、後ろから見守っているんです」

​誰かを想い、その人がそこにいることをそのまま面白がり、受け入れること。

矢部太郎さんが編み出す「本」には、私たちが慌ただしい日常や介護の日々でこぼれ落としまいそうな優しいまなざしが感じられます。


大家さんと僕書影
大家さんと僕』矢部太郎著(新潮社)

 

「いろんなことが巡り巡ってつながっているな、と感じています。

小さい頃にお父さんと絵本を作って遊んでいたとき、その名前を『たろう社』と名付けていました。大家さんのことを、大家さん自身にも読んでもらいたくて分かりやすいマンガで描いたら漫画家になって、『ぼけ日和』などいろんな世代の方に読んでいただける本を作れるようになって。そして本当に『たろう社』も作ることができました。

お笑いでネタを作っていたことも、きっとつながっているんだと思います。だから今までやってきたことも、これからまた何か新しいことと出会って、新しい何かになるのかもしれません。そう考えると、とても楽しみです」

5. 「みんなのぼけ日和」を描きたい

​現在、矢部さんは長谷川先生とともに、読者から介護にまつわるエピソードを募集して漫画にする企画の準備を進めています。

「介護って大変なことが多いと思うのですが、そういう中にも、ちょっとクスッと笑ってしまうようなエピソードが、皆さんきっと一つくらいはあるんじゃないかと思うんです。そういうお話を集めたら、楽しいものができるんじゃないかなと思っています」


ご自愛さん
ご自愛さん』矢部太郎著(PHP研究所)



心がちょっとトゲトゲしたとき、先の見えない不安に出会ったとき、ぜひ矢部さんの本を開いて、そのあたたかさに身を委ねてみてください。

きっと、心に笑顔が灯ると思いますよ。



お話を聞いてみて……



私の母が晩年、枕元で楽しんでいたのが、矢部太郎さんの『大家さんと僕』でした。

お話を伺い、矢部さんが常に本の向こう側にいる読者のことを想像しながら制作されている真摯な姿勢を感じました。

優しさと笑いが同居する矢部さんの著作は、多くの人の心にやわらかさを与えてくれる本だと思います。これからもたくさんの方に届いてほしいと、本屋として改めて強く感じました。



●矢部太郎(やべ・たろう)
1977(昭和52)年、東京生れ。芸人・漫画家。1997(平成9)年に「カラテカ」を結成。芸人としてだけでなく、舞台やドラマ、映画で俳優としても活躍している。2018(平成30)年、初めて描いた漫画『大家さんと僕』で手塚治虫文化賞短編賞を受賞。他の著書に『大家さんと僕 これから』『「大家さんと僕」と僕』(共著)『ぼくのお父さん』『楽屋のトナくん』『マンガ ぼけ日和』『プレゼントでできている』などがある。
X:@tarouyabe
instagram: ttttarouuuu
たろう社公式HP:https://www.tarousha.com/




矢部太郎

この記事の提供元
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著者:小黒悠(おぐろ・ゆう)

ケアする本屋「はるから書店」店主。20代後半に始まった介護経験を活かして、介護に「やくだつ」本と、気持ちの「やわらぐ本」をセレクトしています。元図書館司書。古い建物と喫茶店がすき。平日は会社員、ときどきライター。
・はるから書店公式HP https://harukara-reading.stores.jp/
・はるから書店・小黒悠note https://note.com/harukara/
 

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