書店主で著述家としても活躍している辻山良雄さんによる、本と読書についての連載。今回取り上げるのはは、写真家・エッセイストの繁延あづささんの話題の書『鶏まみれ』、そして、作家・作詞家の高橋久美子さんの東京と愛媛での二拠点生活を描いた『わたしの農継ぎ』の二冊。
さまざまな食べ物を享受しながら、その背景にいるものや人たちについて考えることの少ない多くの現代人にとって、直視することがつらいかもしれない壮絶な現実を示してくれるとともに、命やくらしをつないでいくことの重要性を痛感させてくれる作品たちです。「食」事情の脆弱さが語られることの多い昨今。どんな人にもかかわりのある「食」。改めて考えるきっかけになるかもしれません。
いまから約三十年前の話。そのころ住んでいた東京都小平市のアパートでは、明け方近くになると隣家の庭から、オスのニワトリの高らかに鳴く声が聞こえてきた。
「コケコッコー!」
その時は「もう少し寝させてくれよ」としか思わなかったが、まだ東京の住宅地にも、ニワトリのいる風景が身近にあったのだ。しかしそうした風景もいまではほとんど見なくなってしまった。そして見なくなるということは、それに思いを馳せることもなくなるのだと、本書を読んで気がついた。
長崎にある繁延あづささんの家では、「ゲーム買うのやめるからさ、代わりにニワトリ飼わせて」という長男の言葉をきっかけに、庭先養鶏を行っていた(これは『ニワトリと卵と、息子の思春期』という本に詳しい)。家族の近くではじまったいのちと経済をめぐる営みはその後思わぬ方向に進んだようで、新刊の『鶏まみれ』では、失業中の夫が山の谷間にある土地で平飼いの養鶏業を本格的にはじめる様子と、その鶏を最終的に肉にして食べるべく、食鳥処理場に勤めることになった繁延さんの日々が綴られている。採卵から人間が食べる肉にするまで――文字通り「鶏まみれ」の生活がはじまったのだ。
本書を読んでまず衝撃を受けたのは、食鳥処理場の描写だった。繁延さんが勤めはじめた処理場は、昭和のやり方を色濃く残した、人の手作業に多くを負っている現場だった。面接で「作業工程を全部まわりたい」と伝えていた彼女は、仕事の初日、ニワトリの頭部を切る工程にいきなり立たされる。初心者だからといってラインのスピードが緩むことはなく、ここでは人間が機械の速度に合わせなければならない。まだ仕事には慣れておらず、専用の金具に吊るされ次から次へと流れてくるニワトリを、繁延さんは全身を汚しながらひたすら手にかけていくしかなかった。
流れてくるニワトリは主に食肉用として品種改良されたブロイラーだが、それでもその一匹ずつは、ひとつひとつのいのちである。食鳥処理場では、そのいのちをただの物体としての体、そしてその果てには体すら意識にのぼらせることのない「食肉」へと変えていく。その過程では働く者に考える余地を与えないほうが、スムーズに事が運ぶのだ。
わたしたちが普段食べている食肉は、そのように肉にする過程をアウトソーシングした結果である。良心の呵責なく肉が食べられるのも誰かがその仕事を請け負っているからなのだが、何でも外部化する社会は、効率と引き換えに向こうにあるものへのまなざしを奪ってしまう。その構造は「戦争」にも似て、巧妙に隠された人やものを見ようと努力しなければ、わたしたちは今後大きく道を間違ってしまいそうで恐くなる。
繁延さんはライフワークとして出産の撮影もされており、ニワトリの生態を知るため、卵用鶏種とは別に烏骨鶏も育てているが、いのちの誕生から終わりまで、ただ見るだけではなく自分の体も介入させて理解しようとしている。それはこの時代における人間性の回復とも言えるのではないか。彼女は処理場で働いていたときも、仕事の前には作業場の扉から、屠られる前の生きたニワトリをわざわざ目視していたという。その〈全部〉を引き受けようとする姿は、分業制に慣れてしまったこの時代で、人間であることを手放さないレジスタンスにも見えた。
わたしたちの手から、いのちが遠く離れてしまったように見えるいま、読んでいただきたい本である。
そして農産物に関しても、それがどのように作られて八百屋やスーパーに並んでいるのか、街に住む消費者が思いを馳せる機会も少ないのではないか。作家の高橋久美子さんは愛媛と東京での二拠点生活をしながら、愛媛県にある実家周辺の休耕地で仲間と農業をはじめた。近年では自然志向や安全な食に対する意識も高まり〈農〉に関心のある人も増えていると思うが、街と〈農〉の現場との距離が心理的にも離れているので、その実際をイメージすることは難しい。しかし『わたしの農継ぎ』では、思うに任せぬ農業の現実や、作物を自分で作って食べるよろこびがグイグイ読ませる文章で綴られており、多くの方と〈農〉とを橋渡しする本だと思った。
高橋さんの実家は兼業農家で、米や野菜、みかんなどを育てて自給自足してきた。しかしその周辺では年々人口が減少し、土地は荒地になって太陽光パネルが立てられるなど、のんびりとした環境ではなくなった。それで彼女は生まれ育った場所を守るべく、愛媛―東京間を往復しながら、農業を手探りではじめることになったのだ。
しかし実際にはじめてみた農業は、自然を相手にするものだから人間の思い通りには進んでいかない。気を抜けば畑には「チガヤ」と呼ばれる雑草が繁茂し、身動きが取れなくなるし、夏の猛暑での畑仕事は命の危険を感じるほどだ(この季節はサポートメンバーの足も遠のく)。そして山を手入れする人手が減り里との境界が曖昧になっているので、猿や猪など山にいた野生動物たちが里まで下りてきては、日々畑の作物を荒らしていく……。一日終わるとバタンキュー、あこがれだけではとても続かない仕事であることがよくわかった。
更に輪をかけて大変なものが〈人〉だ。高橋さんの暮らす地域は、いまだ家父長制の名残りがある農村部で、何かというと親世代とバトルになる。農業に興味のある若い人も手伝いに来てくれるが、忙しい彼らを一つのチームにまとめて、作物を持続的に収穫するのも大変な仕事だ。
だが〈農〉の世界もまったなし。後継者不足に加えて、いま引き継がないとこのまま廃れてしまう技術も多いという。いま農業に携わっている人たちとそのあとの世代を、どのように繫いでいけるのか。高橋さんは自給自足+α、兼業でできる小規模な自然農法を目指しているけど、ヒューマンスケールだからこそできる農業もあると思う。農産物を大規模に、工業製品のようにして収穫するのではなく、規模は小さくても、いのちを持った作物として消費者に手渡していく――そのヒントがこの本には書かれていると思った。
一枚の田畑には作物という生命だけではなく、経済や人間関係などありとあらゆるものが含まれている。それらを余すところなく書いた、あかるさが感じられる一冊であった。
著者:辻山良雄
辻山良雄(つじやま・よしお) 1972年兵庫県生まれ。大手書店チェーン〈リブロ〉を退社後、2016年、東京・荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleを開業。書評やNHK「ラジオ深夜便」で本の紹介、ブックセレクションもおこなう。著書に『本屋、はじめました』『365日のほん』『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』がある。最新刊は『熱風』誌の連載をまとめた『しぶとい十人の本屋』(朝日出版社)。撮影:キッチンミノル