書店主で著述家としても活躍している辻山良雄さんによる、本と読書についての連載。今回は、世界をスケッチするように綴る若菜晃子さんの『旅の断片』と、アラスカの広大な自然を友とした星野道夫さんの『旅をする木』の2冊から、記憶のポケットに残る、たよりなくも美しい「旅のことば」をたどってゆきます。
旅先でふと耳に入った言葉や目にした光景が、時を経て自分を支える糧になることがあります。旅先という、非日常の場所で出会う「生のことば」は、私たちの本質を映し出す鏡なのかもしれません。
先日朝日新聞の紙面にて、出版社「スイッチ・パブリッシング」創業者である、新井敏記さんの記事を読んだ。中でもなるほどと膝を打ったのは、その人のことばを引き出すため一緒に旅に出て、その場でインタビューするという独特の手法だ。
日頃の雑事を手放し、いつもとは違う環境に身を置く旅のあいだ、人はよりその人の本質に近いことを考え、口にしている。そうした生のことばを掴まえられれば、それは他にないインタビューとなるだろう。
そして旅人のほうでも、そのように得たことばは体のどこかに残っており、それはその後の〈わたし〉を養っていくものだ。今回はそうした旅のことばに触れる本を紹介したい。
文筆家の若菜晃子さんは、かつては登山専門の出版社に勤務していた編集者で、いつの頃からか時間をつくっては海外を旅するようになっていた。『旅の断片』にはそんな彼女が世界を旅する中で出会った、いくつもの「断片」が収められている。
『旅の断片』若菜晃子著 アノニマ・スタジオ
若菜さんは簡素な線でスケッチを描くかただが、彼女の書く文章もまた、旅で見たもの、出会った人の輪郭をなぞるスケッチのような文章だ。そこに本人の意見や考えを差し挟むことは注意深く避けられており、だからこそ読者も、自分がその場に立ち合っているような気にさせられるのかもしれない。
強い午後の陽光が照りつける狭い通りにはびっしりと隙間なく家が立ち並び、その壁は皆純白に近い白である。白い壁はこの強烈な太陽光線から人々を守っているのだろう。人々は白い町の白い壁のなかで、ひっそりと暮らしているようであった。
これはスペインを走る列車に乗っていた際の、小さな乗換駅での一コマである。その後若菜さんは、通りに眼鏡をかけた初老の男性が営んでいるカフェを見つけ、そこに入る。店主はガラスのコップに入ったミルクコーヒーを持ってくる。彼女はそのコーヒーを飲んだあとお金を支払い、停まっていた列車に乗り込んでまた町を出るというそれだけの話。しかし若菜さんはスペインといえば、その静まりかえった白い町を思い出すという。
だが、こうした忘れられない何でもない光景は、誰の心の中にも存在するものではないだろうか。
わたしにもそうした、なぜか心に残っている旅の光景がいくつもある。それはその場にいた人ですら見た傍から忘れている、あまりにもささやかな瞬間だ。新潟の信濃川沿いにあるホテルのカフェで、朝の光を含みながら揺れている白いレースのカーテン。インドのバス旅行の最中、昼食のために立ち寄った、名前も知らない村の食堂に降り注ぐ午後のスコール……。しかしわたしは、その光景をふとした時にポケットから取り出しては眺め、「わたしは確かにそのときそこにいたのだ」と、自分の軌跡を確かめる。
若菜さんは長い年月のあいだ、そうした「旅の断片」を貯めこんできたのだろう。それは旅でも、また本でも映画でもよいかもしれないが、結局のところいまのわたしを支えているのは、そうした自分にとってのみ意味を持つ、たよりない、詩のような光景なのではないか。
今年は写真家の星野道夫が亡くなって三十年になる年だ。星野は主にアラスカで活動し、クマやザトウクジラ、カリブーといった野生動物、オーロラや広大な雪原などの自然、その地に暮らす人びとと彼らの偉大な文化を写真に収めた。そして彼の書く文章はとても静かで味わい深く、いまも多くの人に愛されている。中でも『旅をする木』は彼の代表作とも言えるエッセイ集で、いつ読んでもアラスカの透明な空気を胸いっぱいに吸い込んだような、静謐な気持ちにさせられる。
『旅をする木』星野道夫 文春文庫
書簡の体裁を取った第一章に象徴的だが、彼の書き残した文章は、遥か遠くから届いた手紙のように思える。
今、九月のアラスカの原野を歩いています。マッキンレー山の裾野からのびる広大なアルパインツンドラです。北国の秋の美しさはたとえようがありません。
彼が生きていた三十年前に比べると、情報技術の発達により人間の暮らす世界はますます狭くなったかもしれないが、人知の及ぶ範囲の外にはいまも、太古から綿々と続く世界そのものが広がっている。美しい自然や季節の恵み――彼は自分がいかにそこで満たされた気持ちでいるのかを、見たものを細かく書き残すことによって表していく。
こうした永遠を思わせる遥かな時間の中で、人間の存在は余りにも小さい。星野はこの地に暮らす先住民族の、身の丈で生きている素朴な人柄と、自然とともにある生き方に触れ、人生の豊かさとは何であるかをいつも考えていた。そこでは生きとし生けるものすべてが同じいのちで、目には見えないものとの繋がりが大切にされている。宮沢賢治の童話やアイヌ民族の教えにも通じるかもしれないが、我々はこうした世界から、余りにも遠いところまで来てしまった。
星野道夫はロシア・カムチャッカ半島を取材中、自ら愛し、何度も撮影したヒグマに襲われて死亡した。しかし彼が紹介した「旅をする木」の話のように、星野の撒いた種は、いつしか木となり、川に流され、海、そして別の大陸へと運ばれていくだろう。この『旅をする木』も、いまだあたらしい人に読み継がれている。〈わたし〉が本を読む、そしてその言葉が読んだ人の中に植えられるとは、人類の長い営みを先へと運ぶ、小さくてたゆみない一粒なのだ。
著者:辻山良雄
辻山良雄(つじやま・よしお) 1972年兵庫県生まれ。大手書店チェーン〈リブロ〉を退社後、2016年、東京・荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleを開業。書評やNHK「ラジオ深夜便」で本の紹介、ブックセレクションもおこなう。著書に『本屋、はじめました』『365日のほん』『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』がある。最新刊は『熱風』誌の連載をまとめた『しぶとい十人の本屋』(朝日出版社)。撮影:キッチンミノル